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【541】固有名詞やアナグラムの「翻訳」は無理だが豊か

『ハリー・ポッター』シリーズ、読まれたことのある方も多いかと思います。私もメインの7巻は全て読みました。小学生の頃は日本語で、その後は度々英語で、更に後にはフランス語やドイツ語や、変わり種ではラテン語や古典ギリシャ語で色々読んだものです。

日本語から英語に行くときには言語的レヴェルを除けばさほど苦労しなかったのですが、仏語やイタリア語に飛ぶといろいろと問題が生じます。


日本語と英語だけで読んでいるとなかなか気づかないのですが、英語のほうの固有名詞はわりと元ネタがある(ないしは明確に普通名詞を参照している)ことが多く、それに対応させるようなかたちで(あるいは根拠がときに不明確なかたちで)全く音の違う名前を当てていることもしばしばです。

流石にHarry Potterはだいたいそのままのスペルになりますが——ラテン語ならHarrius Potter、古典ギリシャ語ならハレイオス・ポテーロスですが、凡そ音写です——、主要な固有名詞においてはかなりの変更がなされます。というより、脇役こそ音写で済ませることもあり、主要人物については名の音が歓喜するイメージが大切だからか、似ても似つかぬものに変えられていることはしばしばです。

魔法学校の名であるHogwartsはそもそも名の由来が混乱しているのですが——著者が本能的に思いついたものの、あるユリの種を指す——、結果的には「豚(hog)」と「イボ(wart)」からなる語なので、仏語はその意味を移し替えつつ、もとの奇妙な雰囲気を残すためにPoudlardなる名前に変えています。

学校の創立者の名前を冠する4つの寮も随分様子が違います。例えばSlytherinなる寮の名は、蛇の滑る動きを意味する動詞slitherから来ていると見ることになると思いますが(実際、寮のシンボルとなる動物は蛇)、slitherと言われてもフランス語的にはなかなかイメージがつかないからか、仏語ではSerpentardと訳されます(-ardは「〜に属する」等の形容詞を作るために付される語尾ですね)。serpentは「蛇」の意味の仏語です。イタリア語では「(無毒の)蛇」を意味するserpeと、寮のシンボルカラーである「緑」を意味するverdeを合わせてSerpeverdeとされます。

例を挙げればキリがありません。Slughornという登場人物はわりとSlughornというスペルが踏襲されますが、これは「ナメクジ」と「角」から成るため、イタリア語版ではLumacornoと改名されます。lumacaが「ナメクジ」、cornoが「角」です。

Albus Dumbledoreは蘭語ではAlbus Perkamentusです。Dumbledoreは古英語でbumblebee(クマバチ)を指す語ですが、perkamentusはおそらくperkament(羊皮紙)をalbusに倣ってラテン語っぽく加工した語でしょう。何故クマバチから羊皮紙になったのかは謎ですが、albusが「白い」という意味のラテン語であることから、でしょうか。

単なる差異で済むものや、違和感を持たせるものばかりではなくて、寧ろ「訳してよかったじゃん!」というものもあります(個人の感想ですが)。

たとえば新入生がどの寮に入るかを決める「組分け帽子」は英語だとsorting hatですが、仏語だとChoixpeauと訳されています。このchoixpeauは、choix「選択」とchapeau「帽子」からなる謂わばカバン語(portmanteau word)です。choixpeauという語だけ見ても、choixという形が保存されるので「選択」に関わることはわかり、ch-という子音と末尾の-peauから、chapeau「帽子」であるということもわかる、というというなりゆきです。無味乾燥なsorting hatなる語句より、ずっと趣深くはないでしょうか。

こういう差が著しいので、フランス語で読むと、英語で読んだときとはかなり異なる印象を得ることになります。


わけても興味を引くのが、悪の親玉として提示されるVoldemortの名です。Voldemortの名はアナグラムによって生まれています(第2巻の第17章にVoldemort本人によって言われます)。

この名が英語原作においてアナグラムの帰結として生じている、ということが明示されるからには、翻訳においてもなんらかのアナグラムを提起しなくてはならず、概ね固有名詞を英語から引き写しにする傾向のあるドイツ語でも、あるいはスペルも音もガンガン変えるフランス語でももちろん、Voldemortという人物の名については、創造性のあるテクニカルな操作が要求されるからです。

不思議とVoldemortの名のほうを変えて提示した翻訳は知りません。

英語:Tom Marvolo Riddle→I am Lord Voldemort
入れ替え後は「私はヴォルデモート卿だ」となります。これが原型です。日本語だとそもそも西洋語的なアナグラムがそぐわないので、邦訳ではこれが記載されていたはずです。

仏語:Tom Elvis Jedusor→Je suis Voldemort
「私はヴォルデモートだ」です。Riddleのほうを完全に変えてしまっているのは珍しい。「卿」即ちLordに相当する仏語ははっきりと存在しているわけではなく、lordと寧ろ英語を借用します(しかし末尾のdは読まない)。

独語:Tom Vorlost Riddle→ist Lord Voldemort
「ヴォルデモート卿ここにあり」ということでしょうか。istはおよそ英語のbe動詞に相当するseinの三人称単数形現在ですが、ここでは繋辞として(つまり「XはYである」という内容を示す語として)は用いられていないようで、寧ろ存在を示す語として用いられているようです。

蘭語:Marten Asmodom Vilijn→Mijn naam is Voldemort
「私の名はヴォルデモート」です。こちらは仏語と同じくLordに相当する要素を入れていませんが(オランダ語ならHeerでしょうし、「ヴォルデモート卿」に相当する箇所の訳がHeer Voldemortになっているからには、Lordという語を入れると平仄があわない、ということでもあります)、ちょっとびっくりすることに、ミドルネームはおろかTomもRiddleもどこかに消えています。お前だれよ、という感じになっています。

伊語:Tom Orvoloson Riddle→Son io Lord Voldemort
「私はヴォルデモート卿だ」であり、英語と同じですが、イタリア語で主語の人称代名詞ioをあえていれているということは、かなり力のはいった言い方です。場面によっては「私こそが〜」というくらいの意味にもなります。

ウクライナ語:Том Ярволд Редл→Я Лорд Волдеморт
ミドルネームををЯрволдに変えたことで、Я「私は(〜である)」という語を使えるようになっていますし、Лорд(lord)の語も入れやすくなっているようです。どことなくЯрволд(Yarvold)はMarvoloに似ていますし(似ていませんか?)、結構上手い訳のような気がします。


きりがないのでやめますが、こんなことで時間を潰せる、何の役にも立たないことができるということは、あるいは少なくともそうする可能性を持っているということは、実に豊かさでしょうし、こういったものを無視し削ぎ落として得られる痩身の皮相なる豊かさよりも、よほど豊かであると感じられます。

実に語学を捨てていたらわからない世界です。ひょっとしたら上に見た翻訳の苦労すらもバカバカしいものだと思ってしまうかもしれません。が、良識ある人ならば、その価値は(納得するかはともかく)理解はできるはずですし、分をおおいに認められることでしょう。

機械翻訳がいくら発達して何らかの創造性を身につけるにしても、こうした創造含みの翻訳には終点がない以上、また翻訳に支配されず寧ろ翻訳を批判的に(≠攻撃的に)捉えかえすためにも、「最低限の」——ということは途方もなく広く高く深い——語学運用能力を身につけようと励む必要が感じられるというものです。

もちろん私は私で、色々なものを捨てて語学とか思想史とかをやっているわけですが、果たしてその捨てた帰結として得られたものは小さくはなかったと常々思われるところです。


無論、「できるが、やらない(しかしできるということを知っている)」ということこそが或る種能力の最大級の発揮であるからには——蓋し手に取りやすい例を引くならアガンベンが『バートルビー』で触れているように「能力」は西洋語においては概ね「潜在性」と同じ語です——、より豊かなところを目指すべく機械翻訳を用いるというのはおおいにありうることですし、語学を学習する(或いは生業とする)人間こそが機械翻訳という現実に真剣に向き合う必要はありますが(それは出版社の人間や愛書家こそが電子書籍なるものに着目せねばならない理由でもあります)、果たして単に「技術の進歩が、語学学習をやらなくてもよいことへと変じた、語学力を無意味にした」と言える時代が来るのかと言えば、それは当座、幾分疑わしいことであると考えざるをえません。

というわけで、アナクロに、しかし最先端のものもきちんと見ながら、勉強しつづけたいものです。