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【813】ゾラのマッチポンプと電車の広告

エミール・ゾラはいわゆる自然主義文学のひととして知られる19世紀後半のフランスの作家です(一応1902年まで生きています)。作品のほうはやたら分厚かったり、波乱万丈があるわけでもなかったり、読み手を選ぶものではありますが(私はあまり好きではない)、なんであれ存命中から大作家として知られていました。フランスの共和制における最高位の勲章であるLégion d’honneur勲章を受け取っています。

極めて不適当な言い方ですが、ゾラは半世紀以上後にサルトルが占めていたような地位を占めた作家で(と言ったらサルトルが怒りそうなものですが)、いわゆる「知識人」として様々に「実世界」に関して発言を行っていました。

最も有名なのはドレフュス事件への介入で、『私は弾劾する』という題の公開状において軍の不正や裁判の誤り、反ユダヤ的傾向を指弾しました。この公開状はわりと危険な試みでした。要するに軍を、国家を直接批判するわけです。案の定、ゾラは名誉毀損で告訴されて有罪判決を受け、勲章も褫奪されたので、投獄されまいとイギリスに避難するなどしました。

もちろん勲章など大したことがないと言えばそうですし、投獄なんか知ったことかと言う人もあるかもしれませんが、お気楽に安全地帯からものを言っているだけの連中とはちょっと色が違います。

いやもちろん、一度地位が確立されているということは、目に見える資産がすべて剥奪されても逃亡・再起できるということですし、寧ろ地位がある者が公のために積極的に何かをせずに保身を試みつづけるとすれば極めて深刻な悪です(無論そうした悪が平気で通用しているのが現代の日本ですが、これは間接的には公なるものの観念が極めて希薄である、ということに由来すると言えるでしょう)。

とはいえ、すすんで奪われにいく人はどうしたって稀なわけで、そうした稀な行為に及んだ稀な作家です。


そんなゾラの態度は筋金入りだった、というかゾラはフィクションに沈潜するタイプの作家ではありませんでした。いや寧ろ、或る種のアンガージュマンは自然主義と正しく両立していました。

このドレフュス事件に先立つこと6年、ゾラが1888年に『フィガロ』の文芸付録に掲載した文章に次のようなものがあり、これは様々な意味で啓発的であると言えそうなものです。

現在のジャーナリズムを前にして、私のただひとつの不安は、ジャーナリズムが国をとらえている神経症的な過剰興奮状態である。(…)こんにち、極めて些末な出来事がどれほど法外に重視されているかということに気づかねばならない。(…)事件がひとつ終われば、別の事件が始まる。新聞はこうした危なっかしい道なしには生存できないのだ。感情をゆさぶる話題がなければ、新聞はそういった話題を作り出す(inventent)。

Émile Zola,  « Le journalisme », Le Figaro (supplément littéraire), 24 novembre 1888,

ゾラが活動したのは19世紀後半のフランスですし、現代の(日本の)ジャーナリズムへと即座に適用することができるタイプの文言ではありません。しかしそれでも、130年・10000キロ離れているとは思えないくらいには啓発的でありつづけているとは言えないでしょうか。

もちろん、上のゾラの言葉から「無感動でいろ」「冷笑的であれ」という結論を引き出すのはおかしな話ですし、ゾラの文脈においていったいどういったものが「過剰興奮状態」として、「極めて些末な出来事」、は具体的内容を踏まえつつ確認する必要があるでしょう(無論省略箇所にあるように、社会問題fait socialが問題となります)。そうして初めて「応用」が可能になります。

それに、些事が些事たる根拠のひとつは個々人の認識であって、つまり主観が入り込まない余地がないとは言えません。おそらくはゾラにとっての些事が他の人にとっては心底大切で重要だった、ということはあるはずです。

とはいえ、どこからどう見てもいらんとしか思えない——もちろんこの言い方も主観的であるにせよ——話題で盛り上がりすぎるということはしょっちゅうであって、「え、その媒体がその話題で盛り上がっていいんですか?」ということは珍しくないでしょう。

芸能人の不倫記事なんかは代表例で、取り上げる意味がよくわからない。私にとっては心底どうでもいいことのひとつですし、よくよく考えてみれば、「売れる」以上の意味や価値は特にない、無駄に傷つく人を増やすものでしかないと誰もが納得するタイプのものではないでしょうか(不倫はそもそも犯罪ではなく、公的に認知させる価値があるとは思われない)。いくら「需要」があっても、そんな需要と供給のオイコノミアが成立することは下劣である、と断じるべきなのですし、完全に排除する必要はないにしても、節度(mesure)はあってよいだろうとは思われます。

もっとひどい場合には、捏造ということがあります。上で「作り出す」と訳したのはinventerという動詞で(英語のinventionと同源)、これには(自然が隠してきたものを)「見つける」という意味もあるもので、一瞬そちらの意味で読みかけましたが、まあここでは「作り出す」でしょう。見えないものを見えるように適切に組み立てて見せるという方式の「作る」であればよいのですが、それにも限度というものがあります。パッと見て見えない、ということにはそれなりの理由や原因——「意図的に隠蔽されている」「実は重要ではない」等——があるのですから、そうして「作る」には誠実さと慎重さが必要になります。


ことは「事件」や狭義のジャーナリズムばかりでなく、市場への訴求においてもよくあてはまります。

好意的に見積もるなら、広告の機能は多くの場合、欲求を持つ者の手に正しく商品の存在を知らせ、そもそも欲求を持たなかった者において欲求を喚起せしめ、また不鮮明や欲求しか持たなかった者の欲求を特定の商品へと固定することに存していますが、ということは大いに欲求を創造し市場を洗脳するのが広告の仕事です。

「潜在的欲求」と、知らぬ間に受け入れてしまった欲求は区別できません。もともと内にあったのか、それとも外から押し付けられていつの間にか内面化させられていたのか、は区別できないということです。

これは単に事実ですから、良いとか悪いとかいう問いにはそぐわないのですが、とはいえ必要性も価値もないものに対する欲求を喚起して、価値もなにもないものを存続させているとすればそれは極めていびつである、ということは認識しておくべきでしょう。

広告ということを問題にするとき、販売側は「売る」という観点を持ってはいても、「それを売ることが果たして良いことであるのか」ということには目が向かないこともあるわけです。もちろんそれは広告が考えることではありませんが、自分自身の生存や発展ということ以上の、あるいはそれ以前の最低条件を見ようとしない。「これは価値なのか」ということを問いもせずに、最悪の場合には売れることを「価値」へと短絡する。……

いや、ダメだとはいいませんが、「感情をゆさぶる話題がなければ、新聞はそういった話題を作り出す」のと同じで、欲求の対象となるような価値(=金を吸い上げる装置)がないならば、広告は価値がない(薄い)ところに価値の幻影を立ち上げ、不安や欲求を煽ることになります。これは自分で火を放っておいて消火ポンプを持ってくることに等しい(いわゆるマッチポンプ)。

……もちろん、「それもまた価値ですよ」と知ったような顔で言い張る人間が最も下劣です。


歪さが際立つ例はいくつもあり、それを見つけることは読者の自習課題とする、というイヤミな教科書の真似をしても良いのですか、成功を収めてしまった例としては脱毛を挙げることができるでしょう。

……いや別に脱毛はしてよいのですが、翻って脱毛しない自由がほとんど認められないケースはあります。もちろん認められているにしても、(特に女性が身体の一定の部位に関して脱毛を行わない自由は)事実上ほとんど認められていない、とさえ言えます。

実際、特別に手を入れていなければ(あるいは特殊なスポーツをやっていなければ)ふさふさと生い茂っているはずの女性の腋窩の毛をほとんど見たことがない、という人は(特に男性に)多いのではないでしょうか。私もあまり見たことがありません。恐らく数年前の真夏の南仏のトラムの駅で、線路越しに見たほとんど幻のような淡い亜麻色の茂みが最初で最後です。

知人の母親が子供を晒し者にしつつやっていたブログでは、思春期の娘の腋窩に毛が生えてきたのを見つけて、抜くことを勧奨したという記述がありました。娘さんは無頓着であったようですが、そんな彼女に対してそのブログの筆者は「水着になったときとか、半袖で腕を挙げて見えちゃったときとか、他の人が驚かない?」と言って、抜くなり剃るなりすることを勧奨していたわけです。

勧奨という形式をとってはいても、これは明確に強要です。「他人はどう思うかなあ? 悪く思うに決まってるでしょ?」不安を煽ってなされる強要です。しかも他人の眼差しを根拠にするからには、手ずから「脇毛を抜け・剃れ・脱毛しろ」というよりいっそう卑怯であると言えます。

(同様の中庸ぶった卑怯な言説としては、「私は同性カップルの同棲や同性婚には理解があるが、今の社会やあなたのご家族はそれを認めないかもしれない!」などというものが挙げられるでしょう。ならば「私は同性カップルに反対だ!」と言い切るほうがまだ正直であると言えます——より良い、とは言いませんが。)

とはいえその母親も、そうしたどこから出てきたのかわからん眼差しを引き受けてしまっているわけで、それはそれで広義の広告の支配下にあります。いや、本人は支配されているとは思っていないはずですが、「女性の脇に毛が茂っているのはおかしい」という(生物学的所与には反した)価値観を刻まれてしまっているわけです。

もちろん、生物学的所与に反しているからダメだとも、所与に従うべきだとも言っていません(所与に従えというのなら人権概念も政治もデモクラシーもすべて消滅する)。脱毛するのはもちろん本人の自由です。自由なのですが、どういう意味での自由であるかを思ってみれば、何の影響もなくフリーハンドある、というわけにはいかない、ということが明らかです。少なくとも「他の人が驚かない?」などという忠告(のかたちをとった強制)が機能してしまうくらいには、「女の脇毛抹消さるべし」という、よくよく考えてみれば基本的に不要で、価値ですらない命令は社会に強く根付いている、というなりゆきです。

無論最近ではそれに対する抵抗も出てきているところですが、やはり社会は脱毛させたいようですし、日本の電車には不安や同調圧力を煽って脱毛させようとするものが溢れていますよね。これをまったく健全で普通の忌むべきところのない企業努力だ、と思う人とは多分話が合わない。

似たものとしては、結婚を煽る広告もあります。何にせよ私がもう4年ほど見ていない日本の電車の広告の様子は、知人に撮影して送ってもらったものを見る限りでは、結婚しろ、脱毛しろ、脱毛しろ、結婚結婚結婚、隣国への悪口、脱毛、日本スゲー、隣国への悪口、脱毛しろ、結婚しろ、根拠のない健康法&勉強法、で尽きており、まったくウンコだなと思わざるをえません(いや、そう言ってはウンコに失礼ですかね)。別に私が住んでいるフランス(を含むヨーロッパ)は日本より全体としてマシだ、などと言うつもりはありませんし、悪い面はめちゃくちゃありますが、少なくとも広告の節度という面ではずっとマシです。

私は早く日本に帰りたいと思っているクチですが、様々な形態の広告だけはまったく勘弁してほしい。価値でもないものに幻影を纏わせて、不安を煽って、圧力を形成する、そんなものには本当にうんざりしている。それが「ビジネス」だというのならビジネスなんかこの世からすべて消え去ったほうがいいとすら思いますね。

もちろん大なり小なり広告にお世話になってしまう、何をやっても広告に絡めとられる、そういうクソッタレな社会に生きているわけで、広告をクソッタレと思わない人にクソッタレな仕事をやっていただいてそれにお世話になっておきながら自分はそこから目を逸らす、そういう意味での「分業」が成立しているわけで、要するにクソッタレだと言っている私も(あるいはあなたも)残念ながら市場のマッチポンプに関しては明らかに共犯なのですが、とまれ目を背けていられるようなポジションは確保したいものですし、可能であればこうした社会を粉砕することになるでしょう。