無限の猿の定理

無限の猿の定理というものを聞いた。猿にタイプライターを打たせ続ければ、シェイクスピアの戯曲が完成するという定理だ。これは、反復により猿の知能が向上するということではなく、タイプを繰り返し続ければ、彼の戯曲と全ての文字列が一致する瞬間が訪れるという、途方もなく低い確率論である。

ただ、前提として、「打たせ続ければ」という無限の時間を約束している。例え世界が終わり宇宙が消滅しても続くものとして、その可能性を信じるための根拠を「無限」と定義している。可能性は“ないとは言えない”から“ある”と言う。

もしも、命さえ永遠なら、何だってできるだろうか。願いが何だって叶うだろうか。永遠さえ手に入れば、わたしを怖がらせるものが何かわからなくなるのなら、わたしもそれが欲しいとすら思った。

そうやって、永遠の命と一緒に、永遠の孤独と破綻を選ぶことになる虚構の中の彼らを、これまでわたしは何度も憐れみ、慈しんできた。


わたしが生きている今現在、時間の不可逆性と非永続性を理解しそれに順応している地球上の人間たちが、限りあるものの美しさや儚さを尊ぶ時間もまた有限である。わたしが今感じたことも触れたものも聞こえたものも何もかも、永遠にはならない。

ただ、永遠を知らないわたしたちでも、有限の中で営まれる、まるで蚕から生糸を紡ぐときのような、この安らかな愛なら知っている。わたしを取り巻くひとつひとつを取り零さぬように丁寧に掬い上げる、この穏やかな優しさなら知っている。生きている時間の中でふと、思い出すように感じる、生きているという実感を、わたしたちは知っている。

無限の時間さえあれば不可能なことなどない、そんな少し粗っぽい定理をわたしは信じてみたい。そして、限りのない時間とはどんなものかを教えてほしい。有限の命を授かったわたしたちが、誰だっていちどは拒否してしまう何かの「終わり」について、それを無視することに成功した、第2のシェイクスピアに。

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