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教室で話した『自由の難しさ』を実感した話。

「自分が植えたんだから、ちゃんと世話しろよ!」

仕事から帰宅するなり、
旦那が開口一番こう言った。
しかも怒り口調で。

旦那がキレているのは、
私が庭に植えたトマトのことだ。

私は親に怒られた子どものような目で反抗し
「うっさいなぁ〜…」と言い返すが、
普段のような勢いはない。

旦那がキレるのも無理はないのだ。


次男の育休が
1年をきってしまった5月辺りから
新しく何かを始めようとソワソワしていた。

長男の時は何もやらずに
ひたすら長男とだけ向き合っていたら
気付けば孤独になっていて
心がいっぱいいっぱいになってしまっていた。

育休中は心の持って行き場を
色々な方向へ作る事がとても大切なんだと
身をもって学んだ最初の育休。

同じ気持ちにならないようにしよう、
もっと育休を楽しもう、と
自分に言い聞かせ
私は2回目の育休に突入した。

このnoteを始めたのも
そんな経緯があったからだった。

さて、私がnoteの他にもやってみようと思いたったのが『家庭菜園』である。

4月くらいからホームセンターでは
小さな苗が沢山売られていた。

私はいつもそれを横目でみながら
庭に野菜を植えて、
それを自分たちで収穫して、
長男とご飯を作ったら楽しそうだなぁ…
と、妄想を膨らませていた。

自分の家でとれた野菜でご飯とか
なんかオシャレだし
丁寧な暮らしって感じだ。

ドライフラワーがぶら下がり
柔らかな太陽の光が注がれる部屋で
鍋いっぱいにラタトゥイユを作る自分を想像し、
それを美味しそうに頬張る息子と旦那を想像した。

なんて素敵なお母さんなんだろう、と
我が家にありもしないドライフラワーまでも妄想し、
私は胸をときめかせる。

しかし、そんな妄想をしている人が多いらしく、
休日に行くホームセンターのレジは
いつも長蛇の列だった。
私と同じ妄想癖の人が多いようで
世の中は平和だなぁと遠目から眺める。

長い列に並ぶのは
ディズニーランドかディズニーシーだけと決めている私は、苗の購入を断念し続けた。

そんなある日、
近くのスーパーの軒先で、
花屋さんが苗を売っていた。
誰も並んでなどいない。

寂れたスーパーバンザイ!
寂れたスーパーありがとう!

私と長男はトマト、きゅうり、パプリカの苗を
すぐさま購入した。

家に帰り、長男と土を掘り起こし
大切に苗を植えた。
水をやると小さく可愛い苗は葉を揺らす。

「早く大きくなるといいね」

私と長男はニコニコ会話をし、
私は妄想通りのスタートを切った。

我が家のオシャレ家庭菜園ライフの幕開けである。


あれから2ヶ月。


我が家の庭には、
オバケトマトという妖怪が
蔓延るようになった。

オバケトマトは
私が横を通る時、
わざと葉を揺らし、茎を伸ばし、
私が恐怖におののく様を見ては面白がる。

ほとんどの近所の家には
同じように庭先にトマトが植えてあるが
挿してある棒と一緒にお行儀よく
真っ直ぐスッとトマトが育っている。

一方で、我が家の庭には、
挿してある棒を全く無視したオバケトマトが
ずぅぅぅぅん…と佇んでいる。
あっちへグニャグニャ
こっちへグニャグニャ。
こんなトマトは、未だかつて見た事がない。
外に出しておくのも恥ずかしい有様である。

最初の頃こそ、わき芽というのを摘んでいたが、
ある程度大きくなってからは
どれがわき芽でどれがわき芽じゃないか全く分からなくなったので
まぁいいか、と放っておいた結果
世にも恐ろしいオバケトマトを誕生させてしまった。
自分のズボラな才能が怖い。


ある日電話で

「おたくの目印は何かありますか?」

などと宅急便のお兄さんに言われたら
屋根の色とか、
周りにあるもの、とかではなくて

「えーっと、茎が好き放題に伸びてるトマトが植えてある家がうちです」

と言えば伝わるだろう。

お兄さんは色んな家の庭を見て
うちの庭にたどり着いた時、

うぉ!なんだこれ?
トマトってこんな風にとっ散らかるの?!
見たことねぇよ…こんなトマト…
どうやったらこんなの育つんだよ…

と、戸惑いを抑えきれないまま
しかしこの家で間違いないと確信をもって
我が家のインターフォンに
恐る恐る手を伸ばすだろう。

オバケトマトは、
我が家を象徴するオブジェのように
堂々と存在感を見せつけている。
目印として活用するにはもってこいだ。

そんな訳で
あれ程小さく可愛かったトマトの苗は
夜中にブンブンとバイクを爆走させるヤンチャな走り屋ように、我が家の庭で好き放題に暴れ回っている。
恐らく夜中にうるさい走り屋達も
昔は小さく可愛い子だったのだろう。
私のトマトの苗もそうだったからよく分かる。

それにしても…
と、庭をぐるりと眺めると、
我が家の庭だけ雑草が凄いし、
見たことない虫も沢山いるし、
生命力の塊のような庭になっている。

他の家の庭は手入れが行き届き
素敵な花が咲き乱れ、
トマトやナスやキュウリやゴーヤが
お行儀良く空に伸びているのに、
我が家の庭だけは自由を履き違えているようだ。

私は小学校で
「自由時間」をとる時に
自由について子ども達に話す自分を思い出す。

自由というのは一見とても素晴らしく
とっても楽なことのようだけど、本当はとても難しい。
自由というのは、実はなんでもかんでも自分の好き勝手にしていい訳ではない。
周りの状況をみて、周りの環境を考えて、自分で責任をもてる範囲でやる好き勝手のこと。
だから教室の自由時間で、
誰もドッチボールをしないよね?

私はため息をつく。

どうやら自由を履き違えているのは
庭ではなくて私の方だ。
責任をもつべきは、庭ではなくて
管理者の私なのだから。
学級崩壊ならぬ、庭崩壊してからでは
もう手遅れである。

我が家の庭では、
ドッチボールや鬼ごっこどころか
本気のスポーツ大会をそこらじゅうでやっている。
今更私が叱っても誰も言うことを聞かないだろう。

私はチラリとオバケトマトを見る。

トマトはオバケトマトになど
決してなりたくなかっただろう。
昔は心優しいトマトだったのだ。
申し訳ない事をしてしまった。

クラスのリーダー格のトマト君は、
お前の言うことなんか聞かねぇぞ!
と、バイクにまたがり
私に睨みをきかせている。
心の雪解けには程遠い。

教室の前に立ち、
偉そうに子ども達に自由について語った自分を穴に埋め、トマトの栄養にでもしたい。

私のせいで、
庭は荒れ放題、
トマトはオバケトマトと化した。
近所の方達は、
私たち家族をズボラの化身だと思っているだろう。
返す言葉もありません。
まことに遺憾に思います。
質疑応答にはたっぷり時間をとって
誠心誠意応えるしかない。
そしてもう二度と家庭菜園はしないと
フラッシュの中で深く頭を下げて誓う。
だから許してくれ、頼むから。

育休から明けたら、
私が家庭菜園でトマトを自由にしすぎて失敗した話を
子ども達に出来そうである。
子ども達が笑ってくれればいいし、
それで自由について少し考えた子が1人でもいれば
私がオバケトマトを生み出した意味はあるだろう。

しかし、
自分の蒔いた種ならぬ、
自分の植えた苗である。
次の休日には重い腰をあげ、
オバケトマトと庭の草を少し手入れしよう。

やはり妄想と現実は違う。

オシャレな生活を送る人は
オシャレでありたいという執念が凄い人か、
マメでキッチリした人か、
ちゃんと努力を続けられる人のどれかだ。

ドライフラワーも私が買ったら
途端にその輝きを失い、
ほんとに枯れてるただの花になるだろう。
もう、やめだやめだ!
オシャレなんてやめだ!

こうして、私の夢見た
オシャレ家庭菜園ライフは
静かに幕を閉じた。

家庭菜園をしているすべての方への
尊敬の念がとまらない34歳の夏。

第二章。
「私のズボラ家庭菜園ライフ」
カミングスーン。

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