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新世代“おとなりの地獄”――『怪物』は誰のための物語か

平日の真っ昼間なのに大入り満員でござった。よきよき

自分はまず社会派系の是枝作品が大好きです。
学生時代に映画を積極的にたくさん観ていた頃に『誰も知らない』を観て衝撃を受け、以来、『そして父になる』『万引き家族』と、親と子を主な題材にした作品について順に観てきた感じになります。是枝監督のフィルモグラフィーからすれば半分にも満たないけれど、それでも信頼したくなるには十分な映像体験を毎回していて、この度の『怪物』も同じ匂いがしたので飛びつきました……。
結果、『BEEF/逆上』の感想をここに書きたいなーとつぶやきながら梅雨入りしてテンションが下がりズルズル書かずじまいでいるうちにこっちの感想文がまた字数爆発!素のままツイッターに投げると引かれだったのでこちらへ逃げてきた次第になります。

以下、観賞したその日に仕事用PCのメモパッドにばぁーっと出力した感想をもうちょっとマトモに整えたものです。私見MAXにつきご容赦を!
なお、核心部分が非常に重要なピースだと思ったので、全力でネタバレは回避したいですが、内容に触れたり台詞の引用はあったりするのでご注意ください。どっちかというとすでに観た人向けです。

感想(ネタバレなし)

ひとことで言えば、是枝監督らしく高解像度でとても親しみ深い“おとなりの地獄”。しかも、今作はいくつもの“地獄”が折り重なり、複雑に絡み合うことで簡単には全容をつかませない、多層構造からのサスペンスミステリのようになっています。こちらは脚本家は坂元裕二さんの勲でしょう。
それでいてまた画作りが不自然でない程度に優しいし、音楽も心地いいんですよね(ここは坂本龍一さん!ご冥福をお祈り致します。)。子供たちだけのパートはスタンドバイミーすら彷彿とさせるノスタルジーがあります(ここの下書きを終えたあとで目に入った監督らのコメントには『銀河鉄道の夜』とありました。なるほどそれもしっくり!)。そういうシーンでは肩の力を抜きやすかったもので、観るハードルは過去作より低い気もしました。

一方で、反面、今作に出てくる“地獄”はあまりになじみ深く、卑近なほど近すぎてちょっと期待したほどの斬新さがありませんでした。イジメ、子どものウソ、シングルマザー、教師たちの保身、加害者家族。どれも根の深い問題ながら、それこそ是枝監督にしてはパンチが弱いぞ……と思わせておいて、やられました。この作品、まさにいま表面化し、現代人が直面しているであろう“新しい地獄”が物語の核に待ち構えていました。たったその一滴の新しい色のシミで今作は「今観る価値」を不動にしています。ある意味いつもどおりの是枝監督のやり口にも思えますね。

だいいち“地獄”って何でしょう?
この作品の場合は、主観が人に与える地獄です。

この世は地獄がデフォルトなんてよく言われる話で、各人が各々の地獄を抱えて生きているのが世の常でもありますが、また他人の“地獄”は見えづらいものでもあります。自分のいる主観の世界が他者の“地獄”を作りだしている。ややこしい話ですね。人のことはわからないのに、わかったようなふりをしてふるまうから日々どこかで悲劇は起きている、とでもいえばまだわかるでしょうか。そして、起きている悲劇に気づきづらいからこその“地獄”でもある。

主観。私はそれを評価する使いやすい言葉として「解像度」を使います。だから“解像度の地獄”と言ってもいい。
世界に対して個人の持つ解像度⇒機械のセンサーと違ってランダムにムラのある「どこがどのくらいはっきりくっきり見える・見えない」こそが主観の本体です。

同じ話をしてしまいますが、人は究極的には自分の解像度しか持てません。これもまた“地獄”の本質です。
自分自身の解像度の低い部分にやり込められる“地獄”があります。さらに、他者の解像度の低さが自分に影響する“地獄”もあります。その他者の“地獄”もまた自分からは見えず、同じように自分の“地獄”もまた他者の“地獄”に寄与してしまう“地獄”。根の深いもの同士が複合的にループするせいで容易に解きほぐせないがゆえの“地獄”。

今作はそういうものをありのままに描いているので、「わかりやすいいいやつ」はおろか、「手放しに褒められるような人物」はひとりも出てきません。子供も含めて、みんながちょっとずつ解像度の低い“嫌なやつ”だし、誰もがそれで日常的に何かしら“致命的なミス”をしている。それも悪意ではなく、多くが過失やそれに類する自然的な何か。教師たちがクレームの対応について画一的マニュアルに従うのも当然なら、内気そうな息子を持つシングルマザーがイジメの潜在的リスクを認知していることにも不思議はない。過去について強い態度で問いただされたときに「知らない」とうそをつくのが女児にありがちな(男児にもありますが)防衛行動だということを経験的に知ってる人は知っている。

この手の作品を見慣れていない人は面食らうかもしれません。上で「新鮮でない」と言いましたが、いまさらのように衝撃を受ける人も少なくはないはず。それはいいことです。解像度の低い他者を知ることは自分の解像度を上げることにはなります。世界に対する解像度を上げることは、自分の“地獄”から脱する一歩になりえます(だから私が是枝作品が好きなのでしょうね)。

一方で、この物語についてあなたがもしも犯人探しや悪さ比べをするのをやめられないようであれば、あなたも他者の“解像度”を意に介さない“怪物”の一人となりえるでしょう(それがまたこの脚本のすごいところだと思いました)。どうしてこんなになるまで、なんてよく言いますが、それも結果という解像度を得たことで初めて言えることばかりです。

(↑専門のお医者様ですらこう。まして教師も含め“人間の素人”たちの「自分たちの社会を治療しようとした」トライアンドエラーがこの映画には満ちている。指示を意見してもどかしがれるのは外野だからです)

主演の瑛太さんは、今作のタイトルは『人間』でもよかったかもしれないとコメントしたそうですね。これも下書きをしたあとで発見しました。この人の脚本に対する理解力というのにはどうも素晴らしいものがあるようで、演技にもやはり寄与しているのでしょう。世代的にウォーターボーイズの頃からずっと見ていますが、同期の山田さんとはまた違う種類の味のあるいい役者さんになったと思います。

さて、やや脱線しましたが、そんな人間の地獄祭りとも呼べる本作でも特に目立つのは“子供の地獄”でしょう。是枝監督はここを解像度高く撮るのが昔からうまいです。いや子役もめちゃくちゃレベルアップしてるんですけど。

まだ視野が狭く、自分の感情とも付き合えず、意思疎通も技術不足で強迫意識に流されやすく、そして大人もそれをさばききるには専門的な技能を要するがため救われづらい子供の地獄。実体験やそばで見ていたどうやら確率も高いらしく、そういう意味で親しみ深いものでしょう。

けれど、この作品は単に“子供の地獄”を描いたものではありません。と思ったのは、“誰”に向けた物語かがかなり具体的だと感じられたためです。
先述した”新しい地獄”、それに直面する人たちこそ”誰”。ネタバレ配慮しつつ”誰”だけ言ってしまえば、子育て中、あるいはこれから子育てに臨む“現代の親”だろうな、というのが私の所見です。
つまり、この作品が見せてきたのは“新しい親の地獄”だ、と思ったのです。

観た人はもしかしたら、学校現場の解像度だけがわざとらしく低く、デフォルメ気味で気になってしまうかもしれません。過失とはいえ身内が人を殺めてしまった教員が短期間で元ポジ現場復帰するでしょうか?(いくら人手不足でも……)いやそれはまだしも、現代の教員においては「腕が当たった」程度であっても生徒との間に問題が起きてしまったときや、生徒同士の問題から誰か怪我をしたときなどは、上司への報告義務は命より重いと思っておいて差し支えありません(これは本気で)。
ただ、これらもまた、作品自体が一般的な”親”へ向けたものだからだとも思うのです。あまりにありふれた大人の持ついかにもな解像度のようではないでしょうか。それでどことなく、小説のようなリアリティに感じられる向きもあるのではないでしょうか。

改めてですが、“新しい親の地獄”の正体についてはネタバレになるので伏せておきますね。すでに観た人以外にはフワッとした話になっちゃいますが。
ただ、子どもの側から見たその”地獄”は、厳密には昔からずっとあったものだと言えます。そして、海外には長い取り組みの歴史もあります。日本で子育て・教育の現場を巻きこむレベルで問題が表面化し、ピックアップされ始めたのがごく最近ということなのです。現在進行形で意識が変わりつつある、あるいは変わるようはたらきかけられているのは、つまり親たちでしょう。

今作はプロモーションで内容の多くが伏せられていました。公式サイトのあらすじはなんだかフワッとしていて正直あまり要領を得ませんし、とりわけ核心部分は匂わせすらされていません。現代的に見れば無用な炎上を避けるためかもしれないし、だとすればネタバレになるので観た人も口に出しづらいあたり賢いマーケティングにも思えます。自分も伏せます。題材としては是枝監督の独走状態でなく、先述した近年の流れどおり、すでに国産映画に関連作品も増えてきていますが、それすら挙げずにおくことにしましょう。
それでいて、これから親になろうという人々が観れば、背中に氷、いや、ナイフが触れたように身を引き締めざるを得ないでしょう。このスタンドバイミーや銀河鉄道の雰囲気もある物語でその題材を選んできたのには、さすがと言いたくなります。

この手の作品を観たところで、「うちは関係ない」「確率は低い」と考える人も多いとは思います。実際確率は低いんです。けれど、もしもに備える流れはとうに整備され始めています(個人的調査に基づく)。認識の甘さゆえに配慮のできない人間と見られるのはどうでしょう、とまで言い始めると少々意地が悪いでしょうが、“情けない大人”のレッテルは実際に形を変えつつあります。
またこの作品は、その”新しい地獄”をメインにはしつつも、とりたてて強く押し出すのでなく、馴染み深い“地獄”たちと同列のものに落とし込んでもいるようでした。それが“当事者”たちにとってのリアルであり、そうでない人々のリアルにも接近していることこそが今の社会に要請されている解像度でもあるからなのでしょう(やはり憎い脚本です)。もはや100%他人事にはなりえないというのがメッセージなら、この作品がいま世に出された意味はとても大きいでしょうね。

誰もが手に入れられる幸せとは

一つだけ台詞を引用させてほしいです。

そもそも是枝監督の作品は、台詞で何かを説明することはほとんどありません。心情、思考、その多くを人物の自然な言動や雰囲気から読み取れる昔ながらの上質な映画です。そんな中で(そんな中だからこそ)異彩を放てる、一個すさまじい台詞がありました。

「誰かにしか手に入らないものは幸せっていわない。誰にでも手に入るものを幸せっていうの」

(一回聞いただけなので細部が違うかもしれません。レンタル始まったら確認します)
これを誰が言うかがまたとても大事なところなのですが(伏せます)、核心部分を踏まえればもうなるほどと言わざるを得ないのです。

ある意味でこれこそ、今の“親”たちに突きつけられるナイフそのものだったのかもしれません。カンヌ脚本賞も納得です。

https://gaga.ne.jp/kaibutsu-movie/ 

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