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多様性ある社会を創りたい

今回はnoteの#とはという企画に参加する記事になります。多様性#とはをテーマに書いていますので是非楽しんでいってください。これまで自分は人間関係について考える記事を何度か考えています。最近書いた恋愛観の話では自分の恋愛観もチームの考え方や自身の生き方などに繋がっているという事を書きました。今回で人間関係の話は最後になります。僕は今でこそ普通にしていますが、最初からこのような人間だった訳ではありません。それは今までの記事でも書いた通りなのですが、価値観のギャップに悩んだり普通じゃないことを悔やんだりと様々なことがあり自分のあり方と人との接し方についてこれまで深く考えてきました。しかし今回は僕自身が昔はマスのような考え方に合わなかったことで苦労した話がしたい訳ではありません。こんなマスから離れていた自分だからこそ出来ることがあるんじゃないかと考えて、僕だから出来ることはないかを考えてみました。今回はこれまでの人間関係の記事の集大成として自分がこれからどう生きたいかを考えた話、そしてそこで見つけた自分自身のミッションの話をしていきます。

傷つくことに慣れてはいけない

いきなりですが僕は僕自身に傷つくことに慣れてはいけないと言い聞かせています。それは僕がとある記事でリーダーは胆力が必要と書かれていたから出てきた言葉なのですが、確かにリーダーなど立場のあるクリエイターとして活動的にしているとどうしても後ろ指をさされる事があります。それは僕がとかは関係なく誰しもそうです。何故ならリーダーのような立場のある人間は意思決定権を持っているがゆえに故意じゃなくても悪いことをすると目立ってしまう可能性が高いです。これは僕の経験した話なのですが、僕はいろんな人に良くも悪くも見られて評価されていました。メンバーや友達、先輩や後輩などから評価されることからは簡単には逃げられません。そして僕はまだまだ未熟なので失敗もします。失敗をしてしまうと視線が集まってしまいます。僕にはそれが怖くて仕方がありませんでした。そこから今までの成功の落差から、落ち込んでしばらく傷つくことに慣れてしまう自分がいました。傷つくことに慣れてしまったことで僕は痛みに鈍感になってしまいました。本当に麻酔が打たれてるような感覚です。痛みに鈍感になると自分にも人にも痛みを与えてしまう。つまり自分にも相手にも無意識で攻撃をしてしまう。そう気づいてから僕はこのままではやばいと感じて、自分の生活を見つめ直します。その結果大切な仲間のおかげでなんとか安定して生活できるくらいに回復しましたが、今でもあの頃の事を考えるとゾッとしてしまいます。相手を少しでも傷つけたことを深く反省し、自分で自分を不幸に追い込んでいたような事は絶対しないと誓いました。この体験から僕は傷つくことに慣れてはいけないし、自分を傷つけることからはある程度逃げてもいい。と考えるようになりました。自分は深く考えすぎだし、どんなことにも向き合いすぎたと振り返ると感じました。「僕が絶対にしない事」でも書いていたように無理をしすぎると結局人間関係をダメにしてしまうという考えもここからきています。先ほどのリーダーは胆力が必要という話に言葉を返すと、胆力を履き違えて鈍感力になってしまうと僕のように破綻してしまうのかなと感じました。自分のキャパシティを超えたことはやらなくていい、もっと自分を大事にしようと考えてどんな時にも余裕を持つワークスタイルに切り替えました。この話は今でも自分の1番の失敗談だと思います。

多様性ある関係は、まず相手を受け入れること

何故このような話をしたかというと上のような経験を通して僕の考える人間関係のあり方は人の痛みにあると思ったからです。人は傷つけられるし、傷つける。という事は誰しもあることですが、以外とこの事に本人たちは気づかない。この話が今までの僕の経験から感じたことです。もちろん全員がそうという訳ではありませんが、トラブルなどの原因がこの法則にあることはしばしば見かけました。何故このような事が起こるのかを考えてみた結果このようなことがわかりました。それは人はどうしても自分本位で考えてしまうということです。確かに自分以外の人のことは完全にはわからないし、自分のことばかりになるのは仕方がないと僕も考えることはあります。それに自分本位なのは全然悪いことではありません。例えば僕は映画館で観る映画が好きですが、友人はそうではありません。その友人は映画館で2時間も3時間も拘束されるのは耐えられないし、できれば自分のペースで観たいと言っています。それに対して僕は映画館の大画面と最高の音響、そしてスマホなど邪魔になるものがない状態で観る映画は最高だ!と言います。それで友人がえー?どうして?と言ったとします。一見これは2人で議論しているようにも見えますよね。僕たちは物事には必ず正解があると考えがちです。しかしそうではない事の方が物事にはあります。今回の例の場合はどちらも正解です。ただ僕が映画館に足を運ぶ派で、友人は家で観る派だったというだけの話ですが自分の意見を押し通すから議論みたいになってしまいます。

僕は多様化している価値観の現代では相手の事を理解し、尊重することが大事だと考えました。この場合だと僕が友人の価値観を理解して、「そういうのもいいよね!」と言えるとお互いにいい関係が作れるような気がします。そして意見は人それぞれと考えれるようになると、様々なものが受け入れられるようにもなっていきます。相手の多様性を認めてあげると世界が広がり、それがいい作用を起こしてくれると僕は考えています。お互いを尊敬してあげる関係が築くことできれば、多様な価値を認めて仲良くなれることでしょう。しかし現実はそう簡単ではなく、その価値観をどうしても理解してくれない人は必ずいるという事も忘れてはいけません。その場合はどうしようもないです。多様性を認めるということは実は何を言われてもそれを受け入れるという事でもあります。その場合は割り切って別の共感してくれる人を見つけるしかありません。人間関係にはどうしても相性があります。自分を許容してくれる人はどんな人か?を考えてみるのもいいかもしれません。

答えのない問題について向き合う

今は価値観も多様化していて、上のような事例はいっぱいあります。多様性ある関係には相手の価値観を理解し、尊重することが必要であるという事に気づいてから多様な人間関係とはなんだろうと考えるようになりました。友人に聞くとグローバルと言います。しかし別の友人は相手を思いやる気持ちと答えました。多様性のある人間関係を聞いても人によって求める価値は違います。人にはそれぞれの価値があるのでそれは普通のことだと思います。僕の周りで好きなタイプは?という話になったことがあります。それぞれ好きなタイプを言い合って意外な人もいれば、予想通りの人もいました。しか自分も含めて好きなタイプはあまり参考にならないと思っていて、何故なら好きなタイプを思い返すとそれに当てはまらない人とも付き合っているからです。それは自分だけかと考えましたが共感する人が多かったのも事実です。つまり好きなタイプは理想であって許容できるボーダーラインではないという結論にその時は至りました。では人が人を許容できるボーダーラインはどこなのか?と考えると先ほども言ったように自分の価値観を許容できる人ばかりではない事がある限りは、全員がみんなのことを許容できる訳ではありません。僕は自分のことを許容できる人のことを考えました。昔に自分がマス的な環境に馴染めなくて悩んでいた時があって、その時には自分を傷つける人ばかりが見えていました。しかし大人になった今ではそれは間違いで何をしても自分を傷つける人はいる、しかし逆に何をしても自分を許容してくれる人がいるという事に気づきました。昔の自分はそれに気づかずに塞ぎこんでいましたが、今思えば手を差し伸べてくれる人はいるのにそれに手を取らなかったことを少し後悔しています。

僕にとっての多様性ある社会

僕は昔から人とは違った価値観の人間でした。今は矯正もして価値観の多様化も進んでいるので楽しく暮らしていますが、昔はマス的な社会=日本の教育からくる「みんなで足並みそろえて」の精神や答えのある問題を解く教育に馴染みませんでした。そのため小学校から高校までは辛いことばかりでした。しかし自分の考え方や生き方に共感してくれる人がいたことが救いとなって今の自分は自分らしく生きることを諦めないようになりました。そして自分の経験から僕は相手を理解し、尊重してあげることの大切さと痛みに鈍感にならず自分も相手も傷つけないという事を決めました。

次第に僕は自分が自分らしくいるために生きることから、相手にもその人らしくいてほしいと思うようにもなりました。相手を傷つけないために絶対にしない自分ルールを決めて、相手を大事にするルールも決めました。そして僕はこれを続けていくことで人の痛みと変わっている自分の生き方を考えてきた僕だからこそ突き詰めることができるようなミッションを見つけました。それは「多様性のある社会を創ること、具体的には自分たちが個性を尊重しあえる社会を創ること」でした。僕自身できるかどうかわかりませんが、こんな自分だからこそしたいと思い現在は行動しています。自分がマス環境に馴染めずに苦労したような経験をしている人はまだいると思います。変わったセクシュアリティーの人(僕もそうです)や、LGBTの人、能力はあるけどコミュニケーションが弱くて社会に馴染めない人など、僕はそういう社会的に立場の弱い人の力にもできるだけなりたいと願っています。僕が考える多様性のある社会の理想は、僕自身も含めて多様性あるチームの中で個人が個人らしくいれる小さな経済圏を創ることだと考えています。メンバー全員がお互いを尊重し、それぞれの弱い部分をみんなが補って仕事ができるような関係作りをこれからは積極的にしていきたいと考えています。

マス環境に苦しんだあの頃の自分へ

僕はあの頃の自分に言いたいことがあります。それは「君はまだ世界のちっぽけしか知らないから辛いんだ。今の環境に馴染めなくてもいい、逃げ出したっていい、自分を認めてくれる人がいれば世界は一気に広がるしその先には自分らしくいれる生き方がきっとあるよ。」ということです。あの頃の自分は井戸の中の蛙でした。でも大海を知ると人生がガラッとかわりました。「井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る」という言葉が好きで実は空の深さはなかなか気づかないと見えないけど確かに持っている潜在的価値だと思っています。僕がこの言葉でいいたいのは、自分がダメと思い込んでいても、視点を変えればいいところは必ずあるという事です。大海にこだわらなくてもいいのです。僕はこれからも相手が気づいていない空の深さ=その人が持っているけど気づいていない潜在的価値を見つけてあげるような人でいたいです。

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