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研究者じゃなくて、エッセイスト。

 エッセイストになる、と言えば笑われるだろうか。そんな夢みたいなこと言ってないで、もっと現実的に未来を考えなさいと。でも、やっぱり思う。エッセイは、私にとっては現実だ。現実的な明日につながる技術(art)なのだと。
 数年前までは、一応研究者を目指していた。大学卒業後に、ほんの少しの社会経験を経て、やっぱり大学院へ戻ろうと決意。書くことや考えることが好きだった私には、そういう時間が正当なもとのとして許されるだけでありがたかった。とはいえ、修士課程入学当時は、大学で教鞭をとる自分が想像できず、修了したらいずれまた一般社会に戻るつもりでいた。

 ところが、修士の2年を終える頃、指導教官から博士後期課程に進学することを勧められた。若い研究者を育てるのに熱心な先生で、ありがたいことに私にも目をかけてくれたのだ。あるテーマについて深く考え、筋道を立てて書くという研究者の営みに手応えを感じていた私は、まんざらでもなく、博士課程に進学することを決め、研究者への道を真面目に歩もうとした。
 もちろん博士課程の指導教官も、修士課程の時と同じ。進学を勧めてくれたその教授である。教授は「あなたを一人前の研究者にするために!」、「あなたには一人前の研究者になってもらわないと困る!」と期待をかけてくれ、成長につながるであろう様々な機会を私に与えてくれた。学会発表、論文投稿、読書会への参加、プライベートな勉強会での発表、海外実習にはアシスタントとして同行させてくれたし、海外から著名研究者が来日すれば、世話役という役目ももらった。様々な研究者や学生に出会えたこうした経験は、実に刺激的で多くを学ぶ機会であった。

・・・しかし、これが私には辛かった。

 研究者であれば、誰もが当たり前にすることである。積極的に学会活動に向かい、論文執筆に励み、口頭発表で叱咤を受ける。研究者になることを望む者なら、多少辛くてもありがたい経験として自分を鼓舞できそうなものだ。しかし、私にはそれがひどく重荷だった。将来大学への就職に有利なることを見据えて研究業績を積むように急かされ、他人に会えば、心の通っていない研究結果を外交モードで説明する。自分の素直な関心を問うている暇はなく、研究者として生き残るために戦略的な研究が求められた。個性豊かな研究者達の話を聞くのは面白かったが、資本主義的な競争を避けられない現在のアカデミズムの空気感に、私は見事に押しつぶされていった。もっと素直な気持ちで物事を考えていたいなぁ…、大学就職のために研究関心をずらしたくないなぁ…そう思いながらも、確かに研究者として食べて行くにためには、周囲のアドバイスは的確で、それを跳ねのけるだけの気概もなかった。かといって、一心不乱に自分の研究関心へ没頭するような情熱も足りなかった。極めつけに、論文の文章スタイルも堅すぎて好きになれなかった。いっときは強がって、これこそがアカデミズムだ!なんて思い込もうとしたが、結局は疲れてしまった。要は、研究者には向いていなかったのだ。無理をしていたのである。あっぷあっぷだった。

 同時に、結婚を考える相手もいた。今の夫である。研究者になろうとしていた頃に結婚し、夫もそれを応援してくれていた。私自身の中にも、両立してこそ現代女性!という感じもあったし、世の働く女性はみなそうやって頑張っているのだから…!と自分を励ましもした。研究者になる道を戦略的に探りながら、関心を見極めて研究活動を続け、週2日は研究関連のアルバイトにでかけ、家事業もこなす…。

  が…しばらくして力尽きた…。

新婚当時の私には、食事のメニューを考えるだけで精一杯だった…。子供だってほしいのに、これからどうしよう…。研究と両立できない自分への罪悪感から焦りばかりが募り、身体と心もバラバラになりつつあった。このやり方では続かない…そう気づいた頃には、結婚3年目をとうに過ぎていた…(笑)。その後、指導教官を変えるという大胆な行動にも出てみたが、結局、後の祭りだった…。

 ただ、文章を書くことへの未練は捨てきれなかった。考えを深めていくことの魅力も手放しがたい。一度は、研究者を志した私も確かに過去の自分である。そこに嘘はない。研究という営みの全てとは言えなくても、そのプロセスのどこかに充実感を感じていたことも本当だ。だから、かつての自分を切り離すことはしたくなかった。手放したくない。まだ、つながっていたい。それなら、研究者になることは諦めても、書くことは続けようと思った。研究のように新たな知見は提供できないし、社会的な役割も極めて低いけれど、それでも「書く」ことには、誰かに向かって自分の扉を開く可能性がある。研究者への想いは今もかすかにあるし、彼・彼女らの思考の深さや緻密さには、心から敬意を表している。でも、自分がそうなれるかどうかは別だ。自分の考えたいことを考えたいペースで考えられることが、今の私には幸せなんだと思う。だから、私は研究者じゃなくて、エッセイストであろうと思った。

 ドイツの哲学者であるマルクス・ガブリエルが、先日のテレビ番組(NHK)でこう言っていた。「自分にとって意味があると思えたなら、それは一歩自分自身に近づいたということ」、そして「思考の先には自由がある」と。日常の些細な出来事でも、ぼやきでも戯言でも、そこから生まれる思考があるなら、それを形(言葉)にすることに意味があると、私は思う。思考の先にある自由のかけらを、身近な言葉達で掴んでみたい。このことが私にとって、ガブリエルの言う自分自身へと近づく行為だとして、これを日々続けていった時、私はどこに辿り着いているだろうか。少し胸がわくわくもする。そう思えると、これまで重石だった研究は、新たな息吹が吹き込まれて、今ようやく、自分の手の中で孵りつつあるような気もする。

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