KOUJI

都内で会社勤めをしています。 妻、長女、次女、三女と暮らしています。 アイコンは次女が…

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都内で会社勤めをしています。 妻、長女、次女、三女と暮らしています。 アイコンは次女が描いた絵です。

最近の記事

~デイリー新潮にて紹介された記事について~

2021年12月31日、デイリー新潮にて紹介して頂きました。 https://www.dailyshincho.jp/article/2021/12310600/?all=1&page=1 新聞報道ではなく、この様な形で公にしてもらったのには理由があります。 1つは、全国紙が数社、公益財団法人日本医療機能評価機構 産科医療補償制度に対し取材をしましたが、産科医療補償制度の原因分析委員会、委員長の岡井崇氏が2017年12月に死去したため、当事者である前委員長からコメントが

    • 出産当日 7 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

      私が大学病院に行っている間、妻はもっともっと大変だったようだ。 B医師から膣会陰裂傷の処置をされたのだが、B医師は麻酔をどこに打ってよいかわからず何回も繰り返し、麻酔を打っていたという。 縫合に2時間の時間を要し、妻は気を失うような痛みを感じたという。 縫合にも慣れていない医師なのだと思ったという。 その縫合は分娩時と同じくらい激痛だったという。 思えば妻は分娩後1か月間程度一人では歩けない状態で、車イスを使用していた。 その理由は、退院後も昼夜問わず冷や汗が出るほどひ

      • 出産当日 6 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

        しばらくして大学病院の先生に呼ばれ、説明を受けた。 検査をした上で赤ちゃんの状況を説明された。 自分が早く知りたい事は、これからどうなるのか、なぜこんな事になっているのか、だった。 どうしてこんな状態なのか聞いたら、今は原因を追究することはやめましょうと言われた。 赤ちゃんなので2,3日で状況が良くなるかもしれないし、悪くなるかもしれないという説明だったと思う。 ただし、亡くなる可能性があることも伝えられた。 その後、面会しても良いとの事だったので、上が開いている小さな箱

        • 出産当日 5 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

          医師が2名登場するので上級医をA医師、担当医をB医師とします。 「少しお待ちください」、と言われ外に出された。 外には母親達が携帯電話を片手に待っていた。 産声を録音しようとしていたようで、「どうしたのか。」と聞かれ「待つように言われた。」 という会話をしたと思う。 どの位待っただろうか、処置室に呼ばれた。 処置をしている別室に通された私は赤ちゃんと対面した。 処置台の上に小さな体が見えた。 顔を見ると眠っているようで、少し微笑んでいる様にも見えた。 可愛い顔をした

        ~デイリー新潮にて紹介された記事について~

        • 出産当日 7 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

        • 出産当日 6 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

        • 出産当日 5 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

          出産当日 4 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

          医師が2名登場するので上級医をA医師、担当医をB医師とします。 午後7時●●分 子宮口全開大から激しい痛みが1時間以上続いていたため体力の限界を感じ、医師に会陰切開を希望するも経過観察することとなる。 妻が体力の限界を感じ、意識もうろうとする中「もう無理です。切ってください。」と言った。 すると、看護スタッフからは「もう少しだから頑張ろう。」 B医師はその時初めて言葉を発した「頑張れ。」と。 この時も、スタッフ達には緊張感がなく、処置をすることはなかった。 あと一回、あ

          出産当日 4 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

          出産当日 3 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

          医師が2名登場するので上級医をA医師、担当医をB医師とします。 午後6時●分 A医師が様子を見に来る(たまたま当直だった上級医A医師が訪れた。その後も何度か出入りしていたと本人が言っている。) 笑いながら、「すごいねー。皮膚が強いねー。よく伸びて避けないねー。こんな伸びるのは初めて見た。」と言っていた。 午後6時●●分 予定時刻より時間がかかっていたので、私は看護スタッフに「時間がかかりすぎているのではないか?」と聞いた。 看護スタッフは、「切ればすぐでるんだけどね。」

          出産当日 3 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

          出産当日 2 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

          分娩室に移動し午後4時●分から午後7時●分まで分娩監視装置を装着 午後5時●●分 子宮口全開大 午後6時 排臨 午後6時●●分 発露 午後6時●●分 医師が立ち会う 医師が来た。 その医師は青白く、自信なさそうな顔をし、小さい声で挨拶をされた。 事故後の病院の報告書によると、この医師は2年の初期研修を終えた3年目の医師で約60例しか経験していない医師だった。 ということは、約20日弱しか1人でお産に立ち会ったことのない医師ということである。 病院の報告書によると、助産師も

          出産当日 2 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

          (コラム) 産科医療補償制度について

          産科医療補償制度とは (令和3年 8月現在 厚生労働省のホームページより抜粋) 分娩に関連して発症した重度脳性まひのお子さまとご家族の経済的負担を速やかに補償するとともに、原因分析を行い、同じような事例の再発防止に資する情報を提供することなどにより、紛争の防止・早期解決および産科医療の質の向上を図ることを目的としています。本制度の運営は、公益財団法人日本医療機能評価機構が行っています。 原因分析・再発防止 分娩機関から提出された診療録等に記載されている情報および保護者から

          (コラム) 産科医療補償制度について

          出産当日 1 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

          病院に着いてからの詳細な記憶は定かではないので、公益財団法人日本医療機能評価機構産科医療補償制度 原因分析委員会において認定された原因分析報告書に記載のある事項に沿って書いていこうと思う。 午前3時●分 入院 午前3時●分~午後4時●分 分娩監視装置を装着 午後4時●分 分娩監視装置を外す 午前7時●分 分娩進行が停滞 いざ出産になるのかと思ったら陣痛が強くなったり、弱くなったりを繰り返していた。 すぐにポンと生まれるものではないのは分かっていたが、苦しんでいる妻を目にして

          出産当日 1 ~出産事故と向き合った10年間の記録~

          出産当日まで ~出産事故と向き合った10年間の記録~

          2011年7月初旬 出産が近くなってきた。 妊娠経過は特に指摘事項もなく、妻は赤ちゃんの事を考えて食事やサプリメントを飲んで気を使って生活していた。 一度不正出血もあったが、その後は順調に経過していた。 予定日を過ぎても陣痛が来る気配のない日が何日か続いた。 妻はむし暑い中で「赤ちゃんが早く下に降りてくるように」と、マンションの階段を登り降りしていたことを印象深く覚えている。 引っ越したばかりの新居にはまだ全ての家具が揃っておらず、床に座って食事をしながら、サッカーワールド

          出産当日まで ~出産事故と向き合った10年間の記録~

          出産事故と向き合った10年間の記録

          2012年2月15日 読売新聞に掲載。 娘が東京都板橋区の特定機能病院で、出産事故に遭い脳死状態で出生しました。 事故当時、自分の頭の中にあったのは、娘の回復のことだけでした。 毎日時間が経つのが遅く、頭がおかしくなるような毎日を過ごしながらも、手探りで医療過誤裁判への準備をしていました。 当時は記事の中にある「産科医療補償制度」とはどの様な制度なのか、全く知りませんでした。 出産事故後の説明会、病院の院外の委員を招いた事故報告書、医療過誤裁判とステージが変わる中で、

          出産事故と向き合った10年間の記録