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やみくもに信じない!〜心をまっすぐにする心理学〜

こんばんは、チーママやよいです!
秋らしくヘッダーの写真を紅葉にしてみました。
最近紅葉を見る機会があまりないので
紅葉狩りにでも行きたい気分です。

そして、秋といえば、柿!
はい、柿好きです^ ^
こちらの西条柿、初めて食べました!
一つ一つ個装されている柿、珍しい気がします。
形は干し柿のように縦長です。

ちょっと熟れ過ぎてしまいましたー。
でも甘くて美味しい柿でした。


東京の書道教室 書道のはな*みち 主宰 スパルタ書道家 高宮華子先生の双子の姉、はな子ママのラジオ番組「はな子ママのお部屋」を聞いて、学んだこと、気づいたこと、感じたことなどを愛弟子兼チーママやよいの独自の視点も加えて書き連ねていきます。はな子ママのお部屋のnote支店としてもご活用ください。

はな子ママ、華子先生のことをもっとお知りになりたい方はこちらにアクセスしてみてくださいね。

書道のはな*みち きれいな字が書けると人生はもっと美しくなる

前回、以下のようなインドのコンシャスネのお話をご紹介いたしました。
今回初めてご覧になる方もいらっしゃるかもしれませんので、
再度同じ文章を載せますね。

あるところに大きな川がありました。
その川岸にはグルーという人が岩に座っていました。
(インドでは精神哲学を教える先生のことを”グルー”と呼びます。)

ある日、一人の旅人が通りかかります。
「すいません、川を渡りたいんですが。。。」
川岸にいたグルーに川の渡り方を尋ねました。
「どうやったらこの川を渡ることができるでしょうか?」
と。
そうしたら、グルーは、
「ボートを使えば川を簡単に渡ることができるよ。」と、
旅人をボートに乗せて、向こう岸までこいで連れていってあげました。
こうして旅人は無事、川を渡ることができました。
向こう岸に渡ることができた旅人はグルーにお礼を述べて、また旅路を急ぎました。

このお話から、前回は恩着せがましさ執着についてお届いたしました。

このグルーのお話には、もう1つの大切な教えが入っています。

今、旅人はグルーのおかげで無事川を渡ることができました。
このような時にも、助けられた旅人にとって、気をつけなければならないことがあります。
それは、やみくもにグルーのことを信じて、いつまでもグルーに答えを求めて、川を渡らせてもらってはいけない、ということです。

グルーは川の渡り方を教えても、旅人の人生に必要な全ての知恵を与えてくれるわけではありません。
一人一人が自分にとって必要な知恵をあらゆることから学んで、気づいたり、悟ったりすることが、”それぞれの人生を生きる”ということです。
人生において恩師や師匠、先生という存在はとても大事ですが、ただ信じるだけというのはコンシャスネスの学びでは少し違います。

「信じる」という言葉は、にんべんに「言う」と書きます。
人が言ったことを聞くということが「信じる」。
英語ではビリーブ、”blieve”と書きます。
この中には”lie"、"”という文字が含まれていることにお気づきになりますでしょうか。
つまり、もしかしたら、"lie"嘘かもしれないということです。
やみくもに信じてはいけない、ということです。

人の言うことを信じられるということはすごく尊いことですが、
ただ大切なことは、むやみに、やみくもに信じてはいけない、ということです。

ただ信じただけの言葉というのは”知識”です。
知恵にはなりません。
"知恵”というのは、後日自分でちゃんとやってみて、体験、経験に落としこんで、そして、そのことに気付くということです。
ただやみくもに信じる知識とは違うのです。

疑うということは、イヤなことかもしれませんが、まずは先ほどのグルーが言ったことが、本当かどうか、大丈夫かどうか、疑ってみます。
ちゃんとこの人は、川岸から向こう岸まで渡らせてくれるのかということを、自分の経験と照らし合わせてみます。
照らし合わせることで、初めて気付きを得ることができるのです。

ただ頭だけで覚えた知識はすぐに忘れてしまいます。
けれど、自分の体に落とし込んだものは知恵として残ります。

このような経験として残ると、他の人にまたわかりやすく伝えることができます。

とはいえ、知識を得るということも、もちろんとても大事なことです。

私たちは誰から知識を得るかというと、まわりの人、特に先生と言われる人たちからです。
これはスポーツ、芸術、娯楽もビジネスや仕事もそうです。

自分が学んだスキルや知恵というものは、必ず先に学んだ方がいて、先に学んだ人たちが後世に伝えています。
そういう人たちが先生と言われています。
"先生”は、文字通り、他の人よりも"きた人”です。

グルーもまた同じです。
このグルーも先に川の渡り方を学んだ人です。

コンシャスネスでは、”先生”というのは、”えらい”とか”すごい”と言うことではなくて、先にスキルや知恵を学んだ人であるということです。

だから、この学びというのは、先生たちが持っているもので、その先生たちが私たちに素晴らしい知恵を授けてくださっています。
コンシャスネスの世界では、先生が特別えらいものでもすごいものでもないので、"仲間”という感覚で学ぶことが大事なことでしょう。

このように先生を仲間と捉えていることは、日本の感覚と少し違うので理解することが難しいかもしれません。

コンシャスネスの学びでは、先生が先に学んで、落とし込んでいきます。
ですので、先生だからといって、単純にえらい、とか、すごい、とか、盲目的に信じるとか、このようなマインドになってしまっていると非常に危ないです。

そのため、コンシャスネスの学びでは、先生、師匠、教師という人たちはもちろん、学んでいる生徒側も含めてみんなが、自分を高めるために心を磨いていく同志、仲間であるというスタンスが大事なのです。

なぜこのスタンスを大事にしているのでしょうか。
それは、わたしたちが先生のことを「先生!」「先生!」と過大に評価していると、その存在をを崇拝するようになってしまうからです。
つまり、”崇拝するべき先生というのは、自分とは別のものだと思ってしまうからです。

もともとコンシャスネスの意識というのは、"全てはひとつ”という考え方です。
自分と相手はいるけれど、そこにわけ隔てるものはありません。
あくまでも、”フラット”とういう考えがベースにあります。

もちろん先生からたくさん学び、敬うことはあるけれど、崇拝しすぎると、盲目的になってしまい、Blieveの中にある”lie”嘘に気付くことができなくなってしまうので気をつけましょう、という
教えです。

また、前回のお話のように、
恩着せがましいという気持ちがあると人は苦しくなります。
では、その苦しさはどこから生まれているのでしょうか。
これも、自分と人は違うという考えを持つと、
自分と人は違うからこそ、例えば、
大事な人を自分の所有物にしたい、
自分に依存してほしい、
自分に感謝してほしい、
このようなエゴが生まれてしまいます。
このようなエゴをずっと抱えていると苦しくなるのです。
でも、
エゴがない人はいません。
まずはそのことに気付くことが大切です。
恩着せがましくなるというのも、エゴの一つです。
人に好かれたい、大事にされたいという気持ちは、人間であれは、誰でも持っている気持ちです。
これも、私と他の人がいるという考えに至ると、
欲しくなったり、何かをされたくなってしまうのです。
もともと一つと思えば、寂しい、つらいとか悲しい、痛いという感覚はなくなってきます。
これは、コンシャスネスの大事な学びであり、仏教においても大本はこのような考えです。

本日は以上です。
いろいろな教えがあるものですね。
いろいろな考え方を知ると、つらいことや悲しいことがあったときも、自分を容易に俯瞰することができたり、気持ちをコントロールすることができるようになる気がいたします。

皆さまのご参考になれば嬉しく思います。

それでは最後に
今日の水書き書道のコーナーです。
今日の草書はこちら!
何の漢字でしょうか?


正解はこちら!
まずは行書で

次に楷書で

でした!


今日も最後まで読んでいただきありがとうございます😊

今日のロアくん🐈

ひょっこりな雰囲気で^_^

Yogiboの上はやっぱりお気に入りなようで、今も爆睡しています^ ^


それでは、おやすみなさい😴


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