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『啜る夜』 | 「想」語り#2

僕が彼女に初めて出会った日から明日でちょうど15年が経とうとしている。あれは、今日のような空気の澄んだ夜だった。

19時に仕事が終わった僕は、出向先の同僚と一緒にラーメンを食べに行くことになった。当時のパリにはラーメン屋と言えるラーメン屋は数が少なく、お店を選ぶのもさほど苦労しなかった。その数少ないお店の中でも僕らがとりわけ通っていた「ラーメンなりかぜ」というお店があった。社内では「ヒミツキチ」としても知られていた。

20席ほどの店内はいつも混雑していたが、その夜はすんなりと席に着くことができた。僕はいつも「特製ラーメン」を頼むと決まっていた。これがまた美味しかったんだ。度を超えたこってりなスープと絶妙な弾力がある麺、その上を焼豚、煮卵、メンマ、わかめが覆い尽くす。

ラーメンがテーブルに運ばれると僕らは“お小遣いをもらった時の少年”の目をしながら食事を始めた。「ずずずっ、ずずずっ」と立派な音を立てながら、もちもちな麺を口の中に移送した。フランス人は音を立てて食べるのはマナー違反だというが、僕からしたらこんなに美味しいものを啜らずに食べる方がマナー違反だと持論を持っていた。今思い返せば、我ながらユニークな持論を持っていたものだ。

僕が立てる音に同僚は慣れていた。しかし、近くの席にいる他のフランス人は気になっていたに違いない。様子を伺ったことは一度もないが、視線を感じるのは常だった。しかし、当時の僕はそんなことなど微塵も気にしていなかった。ただただ目の前のラーメンをいつものように楽しんでいた。

そんな時だった。突然となりの席から怒号のようなものが飛んできた。 « S’il tu plais!!!! Tu manges comme un cochon! »。「あんたねー、食べ方汚いわよっ!」って感じだろうか。それが彼女との初めての出会いだった。今思うとひどい出会い方だ。

それを言われてもちろん僕も黙ってなどいなかった。「日本ではこうやって食べるんだよっ!」「ここはフランスよっ!」と言った小学生の喧嘩のような言い合いがお店中に響き渡った。クスクス笑う人も、驚いてる人もいた。15分くらいだっただろうか、僕たちはひたすら言い合いをした。同僚は先に帰ってしまい、僕は器に残った冷めきったラーメンを無理やり口に入れて、お会計を済ませてお店を後にした。

澄んだ空気とは裏腹に、僕の心は曇っていた。「美味しく食べれなかった」という気持ちより、「言いすぎてしまった」という気持ちが強かった。突然、背中を誰かに叩かれた。振り返ると、先ほど言い合いをしていた彼女が笑いながら背後に立っていた。「さっきはごめんなさいね、言い過ぎたわ」と言ってきた。その言葉を聞いて、つい数秒前まで抱え込んでいた気持ちもどうでもよくなり、「こちらこそ悪かった。」そう僕も伝えた。これが彼女との最初の出会いである。

最初の出会いはいつになっても忘れらない。そう感じながら、当時と変わらぬ笑顔をしている彼女の写真の前で手を合わせる。そのままダイニングテーブルの椅子に腰をかける。そして焼豚、煮卵、メンマ、わかめが覆い尽くしている自家製ラーメンを「ずずずっ、ずずずっ」と思いっきり啜る。いつもよりしょっぱい、そんな気がする。

-----------------------------------------------------------------------------※この物語はフィクションです。
Photo from: https://gotrip.jp/2018/01/81726/


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