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大学生のレポート:安全保障論的な観点から分析する「コロナ・パンデミック」

2021年1月26日 火曜日 23:43(提出締め切りギリギリ?急いでいたのか自分?!)の僕のレポートです(笑)せっかく国際関係学部で勉強したのだから忘れたくない+読み返すのが楽しいので、noteで「シリーズ化」してしまいました。興味があるトピックが見つかれば、読んでみてくださいね!では、早速目次を挟んで内容に行こうと思います!


はじめに

安全保障と聞けば、日米安保を始めとする軍事的ニュアンスが頭に浮かんでくるのが一般的だと感じる。だが「安全保障」と一口に言っても、学問的に取り扱う範囲はとても広い。

早速ではあるが、当レポートの題にある「安全保障論的観点からみたコロナウイルスの蔓延」は一体どのようなものかについての答えを提示したい。それは、『世界的に大きな変化を生み出しており、その中でも「人間の安全保障」上の様々な分野での危機をもたらしているもの』だ。

そうは言っても、武器を持って襲ってくるわけでもないコロナウイルスが、なぜ「人間の安全保障」といった分類で議論されるのだろうか。まずはこの言葉の定義から話を進めていく必要がある。

そして、その定義を踏まえ、「人間の安全保障」を議論する上で見落とすことの出来ない、錯綜した諸問題について取り上げる。

また、リアリズム(国際社会の主体は主権国家で国益が最優先)、リベラリズム(国際社会の主体は主権国家、国際機関、NGOと多様で規範を重んじる)といった理論を用いた分析も同時に加えていく。

安全保障とは?

安全保障とはとても定義するのが難しい言葉ではあるが、講義内容と辞書を参考にして、概念を説明したい 。「人間とその集団が自己の安全を確保し,生命と財産を守ること」これが辞書で提示されている安全保障という言葉の定義だ。読んで字の如く、安全を保障することだが、安全を守られうる対象は様々だ。

まず先程例に出した「日米安保」で考えてみると、その対象は主権国家だ。対象が主権国家の場合は、他国からの武力行使、すなわち戦争が最もわかりやすい脅威で、その脅威を取り除くことが主権国家の安全を保障するという事になる。これは古くから続く、「伝統的安全保障」の概念であり、その起源は戦争が「揉め事の解決手段」として正当性を持っていた時代に遡る。他を淘汰して相手を丸め込むということもありえるという点で、非常にリアリズム的(※武力にモノを言わせる系)だ。

しかし、1928年の不戦条約以降は、今まで国家が戦争に踏み出すことが当然の権利とされてきた常識は覆されることとなった。悲惨な戦争の歴史から、全世界が紛争解決手段としての戦争の違法化に合意した。規範の下、平和な世界秩序を目指す試みと取ることができ、リベラリズム的(※協調的)だと言える。

日米安保に話を戻すが、今現在でも「伝統的なリアリズム的な安全保障の概念」は色濃く残っている。とはいえ、安全保障の概念自体は時代の流れとともに揺れ動いている。

ここまでは、主権国家にとっての安全についての話だったので、次はその主権国家の構成員である私達人間の安全保障という観点から見てみる。主権国家からみると規模感がかなり違うものの、人間目線での「脅威」を取り除くことも、もちろん「安全保障」という言葉に含まれる。

ここで再び問題となるのは「何をもって脅威とみなすか」である。脅威という言葉自体は、「おびやかされて感じる恐ろしさ」と定義され、「脅威を感じる」といった例文が挙げられる 。「感じる」という言葉が使われていることから、主観的な概念であると言える。「脅かされていると感じた」と言われればその恐ろしさの原因は全て脅威、ということになる。

極論ではあるが、交通事故で死んでしまう可能性におびえている人にとっては、街を歩くことも立派な「恐怖」である。その意味では、家に籠もっていることで安全保障が実現されるとも言える。

何が言いたいかと言うと、人間にとっての脅威の種類は多様すぎて、一言では網羅的説明が出来ないということだ。しかし、人間にとっての脅威の根底にある共通項は「命」なのではないだろうか。

リアリズムが国家の行動を説明する際に「国家存続」という言葉が用いられるように、「死にたくない」という点においては普遍性が見出せる。人間が恐れる「死んでしまう瞬間」は、もちろん寿命を全うして老衰する時もあるが、テロリストによって射殺される時、経済的に困窮して食べるものが無くなって餓死する時、病気で蝕まれて死ぬ時、のように色々な場面が考えられる。そのうちの一つとして、新型コロナウイルスに感染して状態が悪化して死ぬ時、ということも想定される。

遠回しにはなったが、脅威を取り除くことが安全を保障することであるならば、こうした戦争以外の要素においても「安全保障」に含まれる事象は数多く存在する。こうした「広範な安全保障の概念」は、主権国家間の戦争を前提としていた伝統的安全保障との対比の中で、「非伝統的」と称される。

かつて主流だった、敵対する国家から自国を守り抜くための、軍事力に依拠する「伝統的安全保障」との間には明確な違いが見受けられる。伝統的には主権国家が国際社会の構成員とされていたが、近年では国際機関、NGO、企業を含む多様な主体が認められている。

そんな「非伝統的安全保障」の最たる例が「人間の安全保障」だ。この概念は、日本人初の国連難民高等弁務官である緒方貞子氏によって力強く提唱された。JICAの「人間の安全保障の実現概要」にあるように、「人間の安全保障」は多様な脅威から人々を保護することに重きをおいている 。

ここでの「脅威」は、国家の安全に対する脅威とは必ずしも考えられてこなかった要因を人々の安全への脅威も含めて定義されている。「人間の安全保障委員会」最終報告書の言葉を借りれば、人々は、

【紛争・国際テロ、災害・環境破壊・汚染の弊害、コロナウイルスやHIVを始めとする感染症の蔓延、長期に渡る抑圧、経済危機による困窮、大規模な人口移動によって発生する難民の流入などの「恐怖」、貧困、栄養失調、教育・保健医療などの社会サービスの欠如、基礎インフラの未整備などの「欠乏」… 】

という多様な「脅威」に脅かされている。「人間の安全保障」は端的に言うなれば、「人々が安心して生活できる環境づくり」だ。

このように、新型コロナウイルスの世界的感染拡大は、「非伝統的脅威」の一つと考えられ、コロナウイルスは「人間の安全保障」の議論に内包される。

様々な分野での危機

「安全保障」においてコロナウイルスも重要な意味合いを持つことがわかったところで、具体的にどのような点で「脅威」となっているのかを以下で示す。

身近な事例で考えれば、コロナがきっかけとなって、今まで日本で進んでこなかったデジタル化が進められ、リモートワークやオンライン授業を始めとする新しい常識が打ち立てられている 。

こうしたメリットとは裏腹に、大きな社会不安を生み出しており、圧倒的に負の側面の方が大きいように思える。その最たる例は、経済的影響だ。経済的と言っても意味が広すぎるので、具体的に示すと、飲食や宿泊業を中心とした経営不振、会社の人員削減による失業、それに付随して起こる、鬱などの精神的な病などと、問題は多岐に渡る。

コロナの脅威は、極めて横断的性格を有しており、様々な事象との関連性が見て取れる。これは、リベラリズム的発想で言う、国際社会においての相互依存の産物であり、多数の主体が大前提となっている。

武力は経済力があれば買えるという立場に立つネオリアリズム、そしてリベラリズムによって特に注目される「経済協力」という視点からみても、その相互性は各個人、家庭の単位で収まるような問題ではない。

当然個人は企業に勤めたりしているわけで、その企業は国に属している。そう考えれば個人単位での安全保障と国家単位、更には国際社会単位での安全保障は不可分である。


ここで、内閣府による国家安全保障戦略で示されている、安全保障で取り扱われる内容について確認したい 。大枠としては、豊かな文化と伝統、自由、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配が基本理念として掲げられている。

国家財としても捉えられる国民の生命、身体、財産の安全確保が優先される。そのためにも、コロナウイルスのような感染症を含む脅威の発生予防、防止、排除、被害の最小化に取り組むという趣旨が明記されている。これはまさに前述の「人間の安全保障」であり、その解決に向けた努力の必要性は、国家においても十分に認知されている。

先程は、個人単位でのコロナウイルスのもたらしている具体的な事例を取り上げた。ここでは再び、国家と経済という観点から諸問題を分析してく。

繰り返しにはなるが、社会問題はそう単純ではなく、経済と結びつく要素は無数に存在している。経済と貿易は相互に強く影響を受けあっており、一国がコロナウイルスの影響で打撃を受けている国内経済を守るために保護主義的貿易を行えば、輸出に依存している日本のような国の経済は外的要因によって停滞する可能性が十分に考えられる。

貿易の対象はモノだけでなく、技術も含まれることを考えれば、国内技術や情報の流出を国家は恐れる。なぜならそれが国内企業の国際的競争力を低下させることに繋がれば、各個人の困窮にも繋がりかねないからだ。

具体的には中国のファーウェイに対してアメリカが市場からの排除を試みた例が挙げられる 。アメリカは、リアリズム的な考え方で、ファーウェイを排除しなければ自国の国益を守りきれないと判断したと言える。企業としてのファーウェイと、中国共産党の癒着で情報が筒抜けになる事は、重大な安全保障上の問題だ。情報漏えいは、サイバーセキュリティとも関連してくる。一見壮大に聞こえるサイバーセキュリティも、個人の情報保護に直結する分野と言える。そして情報保護が疎かになれば、日本が安全保障戦略で掲げている「基本的人権の尊重」が確約できなくなる事を意味する。

また、グローバル化の渦中にある国際社会では、中国に強く依存するサプライチェーンの見直しの動きも見られる 。食糧やワクチンなどといった人間の命に直接的に関わってくる物資の確保は国家に責任が及ぶ部分であり、経済力・国力がなければそういった資源へのアクセスも自ずと制限されてくる。

この現状に関しては、リアリズム的な主権国家の重要性とリベラリズム的なグローバル化の中での相互依存の高まりが同時進行していると言える。経済力は国によっての差が大きく、それに付随して不均質的に経済格差も拡大していく。コロナ禍では、経済的に弱い立場にある国、具体的な国内問題の視点で考えれば、経済状況の厳しい子育て家庭の国民が真っ先に皺寄せを食らう 。

また、資源というのも極めて広範な概念を持つ言葉だ。資源ナショナリズムという言葉があるように、海洋資源を巡っての争いも国家間で発生している。

この点においては今まで扱ってきた「非伝統的」ではなく武力を基準とした「伝統的」安全保障の概念が未だに健在である。特に海洋国家である日本にとっては、北朝鮮の軍事的行動、中国公船による領海侵入行為などの重大な問題が存在している。

一見するとコロナウイルスとはなんの関係も無いようだが、世界各国がコロナウイルスの対応に追われる状況下で、中国が海上実効支配を進めることで領有権を獲得し、有意に立ちたいというリアリズム的意図をちらつかせている。

米軍でも、コロナウイルス感染者が原因となった軍事演習への支障、例外的な米軍の撤退もあった 。軍事的側面にまでコロナの影響は波及している。そして、このコロナの状況下で、米中対立は、経済と貿易、社会体制、軍事といった要素を背景として加速している 。この世界的大国間での対立の影響は経済等を通じて、全世界に広がっていく。

「伝統的安全保障」の観点おいては紛争も無視できない。紛争をしているようではコロナウイルスの脅威への対応が遅れてしまうということで、2020年3月にはグテーレス国連事務総長から「グローバル停戦」が呼びかけられている 。非常に理想主義的で、リベラリズムの要素が色濃い。

日本国際問題研究所の研究レポートにもある通り、コロナウイルスは健康、経済活動、そして政治や国際秩序に影響を与える。コロナ感染症と「人間の安全保障」は切っても切れない関係にある。国際社会に蔓延る様々な問題も、元を辿れば「人間の安全保障」問題へと繋がってくる。現代の国際社会をリアリズムだけの観点から語る事は限界を迎えている。

最後に

ここまで、安全保障論的観点に加え、「個人と国際社会の繋がり」を強調しながらコロナウイルスの世界的感染拡大を分析してきた。国という大きな範囲で、観点が凝り固まってしまいがちではあるが、最終的に行き着く先はやはり個人の次元である。

「はじめに」で既に述べた通り、コロナウイルスは、「人間の安全保障」上の問題である。安全保障という概念自体の、時代の流れの中での範囲の拡大は特徴的で、どんどんと広範囲化している。「人間の安全保障上の問題としてのコロナウイルス」と言われても、「自分事」としては捉えにくいかも知れない。だとしても、「国際社会の構成員としての自分」に出来る事を模索する姿勢が重要だ。

また当レポートでは、各事象をリアリズムとリベラリズムという理論で説明しようと試みたものの、やはりどちらか一つで全てを完全に説明することは不可能だ。あくまでも「観点」として理論を状況に合わせて上手く用いて行く必要がある。

僕のnoteを読んでくださって、ありがとうございます!お金という形でのご支援に具体的なリターンを提示することは出来ないのですが、もしサポートを頂いた際は、僕自身の成長をまたnoteを通して報告させていただけるように頑張りたいと思っています。