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連載小説《アンフィニ・ブラッド》第2話


 自室のベッドの上で小さく体育座りをしながら、倉矢アンジュの心はざわついていた。時刻は午前零時。なかなか眠りにつけない理由は、さっき飲んだコーヒーのせいだけではない。胸の奥がザワザワして、身体に不快な痺れが走るのだ。
「シオンさん、どうしてあんなことを……」
 吐息混じりにそう呟き、アンジュは今日あったことを思い出した。
 
 そもそもアンジュにとって、四祈吹奏楽団のフルート奏者である神戸シオンは憧れの存在だった。容姿端麗な上に、フルートの腕前も超一流。しかしそれにあぐらをかかず、同じ吹奏楽団の後輩であるアンジュに対して丁寧な指導をし、気さくに優しく接している。
 アンジュがシオンに憧れている理由はそれだけではない。いつも自分に自信を持って生きるシオンの姿に、アンジュは強い憧れを抱いていた。自分に自信を持てず、褒められてもすぐ謙遜ばかりしているアンジュの目に、シオンはいつも輝いて見えていた。
 
 *
 
 四祈吹奏楽団の団員たちは、今日も市民ホールでの練習を終え家路に着く。
「アンジュ、今日は一緒に帰らない?」
 シオンが尋ねる。
「はい!」
 元気よく返事をしたアンジュ。シオンは微かな笑みを浮かべた。
 ホールを出てすぐの川沿いの道を、アンジュはシオンの後ろについて歩く。アンジュの前には、黒いスキニーのポケットに手をつっこんだまま歩くシオンと、長く伸びるその影があった。
 白のノースリーブから伸びる華奢な両腕。小柄なシオンの、真っ直ぐ伸びた凛々しい背中。その小さな背中に手を伸ばして触れたら、きっと自分の中の何かが音を立てて崩れてしまいそうな、そんな気配をアンジュは感じていた。
(今、ここで、この背中にギュッと抱きついたら──)
「何考えてるの?」
 不意にシオンが振り返る。両手を後ろに回し、その不埒な妄想を見透かしているかのようないたずらっ子の目でアンジュを見つめている。
「あっ……ごめんなさい、ちょっと考え事をしていて」
 努めて冷静に、アンジュはそう返した。それがイマイチ気に食わなかったのか、シオンは視線を逸らして少し何かを考える素振りを見せた後、再びアンジュを見つめた。
「アンジュ。私が今から何をしても、それを許してくれる?」
「えっ……」
 どういう事ですか、とアンジュが言葉を続けようとしたその瞬間、シオンの髪がなびいた。風に乗って、甘い香りがした。同時に、シオンはアンジュに正面から抱きついていた。
「ごめんね……しばらくこうさせて……」
 シオンがきつくアンジュを抱き締める。時が止まってしまったかのように、ふたりはしばらく動かなかった。微かにそよぐ風が、シオンの甘い香りを撹拌させる。
 
 どれだけ時間が過ぎたのだろうか。シオンはアンジュを抱き締める腕を放した。
「……ありがと」
 微かに震えた小さな声で、独り言のようにシオンはポツリと呟いた。少し俯いたシオンの表情に翳りが見えたのは、アンジュの気のせいだったのだろうか。
 辺りはもう、ぼんやりと暗くなっていた。街の明かりが灯り始める。
「……じゃあ、またね」
 シオンは階段を降り、薄い暗闇の中へ消えていった。
「……シオン、さん……」
 口の中で転がすように、その名を呟いてみる。無意識に顔が熱くなっているのがわかる。身体は汗でビショビショだった。
 アンジュは深呼吸をした。そして、七段あるその階段の上から勢いよく飛んだ。
 体が宙に浮く。空気が、呼吸が、全ての音が止まる。
(さっきと同じだ。シオンさんに抱き締められた、さっきと……)
 チカチカと瞬く街灯が、アンジュの影をうっすらと地面に落とす。アンジュは、その上に着地した。衝撃で足がビリッと痛む。普段なら嫌ほど顔をしかめるようなこの痛みも、今のアンジュには程よく心地良いものだった。
「……シオンさん」
 何かを確かめるように、その名をもう一度口の中で転がす。アンジュは立ち上がって走り出した。
 
 *
 
『……ありがと』
 自室で膝を抱えて蹲るアンジュの頭の中に、シオンの声が響く。
『……じゃあ、またね』
 いつもなら「また明日」と言うはずのシオンが、今日は「またね」と言った。
 本当に、もう会えなくなりそうな予感がした。
 気がつけば、アンジュは部屋を飛び出していた。足は自然と動き、『あの場所』へ向かって駆けていた。


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