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理想の自分になれない

お久しぶりです、野菜食べなきゃです。

定期的にこの場に自分の不安を書き出してしまいます…
でも前回の記事でいいねしてくださる皆さんからの通知を見ると、一人ではないことを感じられて温かい気持ちになれますね。

↓前回の記事はこちら↓

今回はずばり、「理想の自分になれない」です。

アンビバレントな自分

私は私自身の事しかわからないけれど、常々私はアンビバレントな人間だなあと思うのです。
なぜなら行動に本心が伴っていることが少ないからです。

以前周りの人に私自身のことを聞いたとき、多かったのが「優しい」とか「寄り添える」とかでした。
でも、心を許して話せているなと思う人には決して優しいなんて思われていません。(笑)
なぜなら心を許せる人にだけは本心ベースで話すことがあるからです。

本当の私は、周りに批判的ですぐにこの人嫌いだなとすぐ感じてしまうような卑劣な人間です。努力をしない人間は嫌いだし、自分自身に厳しく接するための基準を同じように他人にも宛がってしまいます。他人や物事に対する悪口も、無限に出てくるような幼稚な人間なのです。

でも自分が自分にとって他人なら、自分みたいな人間は大嫌いです。自分を棚に上げて周りに批判的なんて許せないです。(笑)

だからいつも「理想の自分」を掲げて、本心で違うことを思っていても、理想の自分がそういう行動をしないと思えば感情と矛盾した行動をとっています。

小学生の頃、担任の先生に「娘さんはしっかりしていて優等生ですね」的なことを言われた母親は心底驚いていて、家に帰るなりその話を私にして爆笑していました。なぜなら普段の家での私は、学校で今日あったことへの不満を帰るなりぶちまけるような子だったからです。

私としても、小学校の自分と家での自分を使い分けているなという自覚はありました。
例えば家では片付けをしないけれど、学校の机の中はクラス1くらい整理整頓していたし、
誰も片付けないゴミ箱をひっそり片付けたり、放課後1人で掃除をしたり。

そういう「しっかりした」「慈善心のある」人に憧れと、そうあるべきだと理想を見出していたのだと思います。

それは今も変わりません。

理想の自分でありたい

理想の自分になろうと努力することは悪い事だとは思っていません。
本心と違う行動をとるのも、人としてのエチケットだとは思います。

でも自分とかけはなれた理想であるのに、その理想を着ることで外面良く生きてこれたので、本心というか本当の自分がついていかなくてもここまで生きてこれてしまいました。

こいつ使えねえな、話すまでもないなと思っていても、時間をかけて相手に寄り添ったりしています。めちゃくちゃに罵倒してやりたくても、逆にめちゃくちゃ褒めたりしています。

そうやって、理想を身に着て行動する自分が好きなんだと思います。というか、理想の自分になることで自分を褒めてあげたいのだと思います。

でも本心は一向に成長していないから、たまにボロが出てしまって、理想の自分になれなかったと落ち込むことがあります。
後から友達と会った時の自分を猛烈に反省したりします。あの時のあの話し方は違ったな。あれは言うべきではなかったな。ニコニコしておくべきだったな、とか。

普段ならできる理想の自分を演じることも、疲れていたり感情的な日だとたまにボロが出てしまうのです。

そして本来の自分が1番許せないからこそ、そうしてボロが出ると1番嫌な人間になってしまうのです。
理想から1番かけはなれた自分になってしまうのです。

理想の自分になれない

今までは、ほんとのほんとの本心を母親に全て話して憂さを晴らしていたからボロが出ずに自己嫌悪に陥ることもあまりありませんでした。

でも一人で生きる今は、それを吐き出すこともあまりできず、そうやってたまにボロを出してしまい、めちゃくちゃに落ち込むのです。

理想を着るのなら、いつでも理想の自分でいるべきです。
ボロを出すなんて言語道断です。
というか、そういう完璧さを理想にしているのです。

なのに私は下手なので、完璧にはなれません。

本心を話せる友達はいるけれど、でも人前では常に過度に理性的に話す癖があるので全部が全部本心ではありません。
本心でなくてもいいとは思うけれど、あまりにかけ離れた自分を装ってしまいます。
薄くでも理想を羽織ってしか、人前に出られません。

私が未熟だからこうなのでしょうか。
世間の人々はなぜみな良く生きられるのでしょうか。

理想の自分を理想に叶うように完璧に演じられるようになるか、
本来の自分を今からでも理想の自分目掛けて矯正するか。

生きるって難しいです。

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