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聖人になりたいと思う瞬間がある

お久しぶりです、こんにちは。
野菜食べなきゃです。(今回はパソコン執筆なので、意図せずいつもと句読点の打ち方が違うverでお送りします)

SNSが身近な存在になって久しいですね。
なんなら、SNSが〜みたいなフレーズすらダサいレベルだと思います。笑

ただやはりSNSってエンタメにしては私たちの生活に身近すぎるし、私たちの生活にしてはエンタメすぎる、不思議な存在で、私としてはまだ適切な距離感がわかりません。
特に私はSNSが中学生くらいで流行りだして、高校生のときに世の中的に一般的になってきた世代なので、まだ広い意味でネットリテラシーというか、生活の一部としての認識がないからかもしれません。

SNSって本当に面白いですよね。
自分には知り得ない世界の話が平然となされていたり、その平然が全然嘘だったり、フォロワー0でひとり語りするアカウントが存在したり、一つのポストがきっかけで次の日あるコスメが全国から姿を消したり。

最近ではSNSを発信源とするような芸能人の不祥事なんかも多いですよね。暴露の場としてSNSを利用するケースも多いからでしょうか。

とにかく目まぐるしくて、刺激が強いなあと思います。
そして、ただネットニュースのように目まぐるしいだけではなくて、その中には圧倒的な良心も、圧倒的な悪意も五分五分で存在していると感じます。

そして、そんなポストを見ていると、世の中面白いなと思うと同時に、
「人間やめたいな」と思う瞬間があります。

発達障害を蔑視するようなポスト、義母への不満をぶちまけるポスト、痛いアイドルファンのポストを吊るし上げるポスト、などなど…こういうものを見たとき。
ネガティブな感情を呼び起こすような事象を上げて、批判して、なんとなくスカッとする。
みたいな類のポストってありますよね。

私がこういうものを見て、共通するのは「なんかわかるな」と思ってしまうことです。

正直、こういうポストの目的って「こいつやばいよね!?」的な圧倒的共感がほしいわけで、実際見た人のそういう気持ちを煽るように強調されていると思うし、盛っている部分もあると思います。なんなら嘘エピソードも混じっていると思います。

でもそういうポストって、閲覧するこっち側も謎に匿名だというモードに入るというか、いつも外で人と話すときに身に纏う社会性や道徳心みたいなものが何故か削ぎ落とされた状態になりませんか?
私が自分のアカウントは見るだけにしか使っていなくて、情報を発信する側には決してならないからかもしれませんが。

躊躇せずに、そのポストに込められた不満とか蔑視とかに対して、「わかるわあ」とか「嫌だなあ」と思ってしまうのです。

SNSってパッと見ていくものだと思っているので、その時その瞬間には「わかるわあ」「嫌だなあ」くらいのちゃちゃっとした感情しか浮かばないのですが、
SNSを閉じたときに、「嫌だなあ」という感情を抱く対象が、そのポストで攻撃されていた人や事象ではなくて、「わかるわあ」「嫌だなあ」という感情をそのポストに抱いた自分にさっと切り替わる、そんな現象が私は起こります。

そういう不満や蔑視に共感して、攻撃するような文面になんとなくスカッとした気持ちになるって、自分ってすごく汚い人間だなと思ってしまうのです。
いじめを黙認している生徒Bみたいな、そんな存在になったような、なんともいえない気持ちになります。

そしてまた、ポストで攻撃されている側のやばさというか、社会的に正しくない部分もよおくわかってしまうから、
なんか全てに雁字搦めになった気分というか、どこにも逃げられないような、首を締められたような苦しさを味わうことが多々あります。

それなりの理由があるにしろ、様々な人がターゲットになり、何万人もの不満に膨れ上がっている様を見ると、ターゲットになった人の全ての属性にも当てはまりたくないし、かつそれを笑っている人にもなりたくない、みたいな、
本当にどこにも逃げ場がない、みたいな。
そんな気持ちになります。

そういうとき、人間辞めたいな…という気持ちになります。
だって、SNSを見る限り、人間であればどんな属性でも社会的に攻撃されるような、客観的に見ればやばい人間になる因子を持ち合わせているし、かつそういう人を攻撃する側になることもできるわけで。

人間である限り、なんかもうこういう気持ち悪い構造からは逃れられない気がしてしまいます。そしてこの気持ち悪さから逃れるには、人間をやめるしかないな。という気分になるのです。

そして、やっとタイトルに戻るのですが、
私は専攻の関係で、宗教をほんの少し齧ることがあるのですが、
どの宗教でも聖人っているじゃないですか。

荒野で厳しい修行をして、欲望や雑念をなくし克服した、聖なる人間。

SNSにまつわる気持ち悪さから、人間やめるしかないやんと思ったとき、ふと聖人のエピソードが頭をよぎりました。

聖人も人間である限りの限界というか、こういう気持ち悪さを感じて、人間やめたくなったのかな。欲望も雑念も、滑稽なものだと思ってしまったから克服したくなったのかな。

と、なんとなく共感したような気持ちになりました。

宗教についてはあまり詳しくないので、この解釈が正しいかは全く知りませんが、
最近の自分の不気味さを解消してくれるのは、もう聖人になるしかない気がしています。

まあ、SNSを見るのやめるのが一番はやいのですが。
やはりエンタメ的な面白さには勝てず、いかに自分が欲望にまみれているか再確認しますね。


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