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心の寿命を提言されている記事を読んで考えた記憶の寿命という命の絆のこと。

ずいぶん前に下書きしたまま、書き上げていなかったタイトルの記事を見つけたので、今回はその記事の続きを書き上げて投稿したいと思います。😅

タイトルにも書いたように「心の寿命」という、もう1つの寿命について記事にしておられる方を見つけたんですよね。

その方が北風太陽さんことオクさんというこの方で、オクさんに奥さんがいるかどうかはわからないけど、6月6日に北風太陽さんから名乗りが突然オクさんに変わっているので、オクさんで良いんだと思うけど、この方です。


オクさんのこの記事ではまず、人には平均寿命健康寿命があるけど、この2つとは別にもう1つ大事な寿命があり、それが心の寿命であると書いておられるんですね。

心の寿命の話の前に、平均寿命と健康寿命を、死ぬまでの時間と体が元気で働ける時間というように定義した上で、大切な人が死ぬまでの時間を心の寿命と定義されているわけです。

要するに自分にとっての大切な人が亡くなるまでの時間を、心の寿命ととらえておられるわけですね。(^_^)b

この大切な人との別れがいつやって来るのか、どういう形で訪れるのかは誰にも予測が付かないし、コントロールも不可能な、天のみぞ知る、といったどうにもできないこととして、万人が受け止めざるを得ないわけです。

そしてその心の寿命にも限りがあるので、時間の過ごし方をどのように過ごすのか、よく考えようという話で締めくくっておられるんですが、この記事を読了した後に、実はもう1つの寿命があることに思い至ったんですよ。

そうです、オクさんの言われた心の寿命の他に、4つ目のもう1つの寿命があるんじゃ無いかと気がついたんです。🤔

それが、記憶の寿命というヤツなんですね。

親しかった友人や知人の消息を、いっこうに聞かないままで月日だけが流れて、ある日その人が既に亡くなっていることを聞かされたときの、悲しみよりも呆然とする思い、そんな思いを何度も経験したことがあるんですよ。

だけど、そういうときの悲しみは、リアルタイムで行き会わせる永別の深い悲しみと違って、過去になってしまったせいか、目の前でリアルタイムで訪れる訃報よりも、悲しみや切なさが少しばかり薄れる気がするのです。

だから、亡くなった直後に消息を知って悲しみにくれるよりも、どうせならまだ元気でいると思い込んで、知らされるまでの年月をお互いに無事でいると信じてやり過ごしたい、そんな思いになるわけなんですよ。😥

人の悲しみは、時間とともに薄れていくものだけど、悲しみの発端が遠い過去であればあるほど、その事実を知らされたときに襲い来る悲しみも、同じように薄まってくれるのかもしれないですね。🤔

直後に知らされて泣きわめいた分だけその事実が覆る、というのならなるだけ早く知りたいし、大いに泣き喚きもするけれど、いくら号泣しようが変えられない現実の前では、悲しみの薄まりを願うほかはないと思うのです。

そういうときの、時の女神のありがたさ、なんだと思うのです。
時の女神というのは、時の経過とともに悲しみを遠くへ運び去ってくれる女神のことですね。(^_^)b

人が亡くなったその人のことを記憶にとどめて思い出す限り、記憶の寿命は途切れることはない、そう信じています。

そしてこの記憶の寿命というのは、絆の寿命でもあるわけですね。
強い絆で結ばれて、忘れずに記憶している限り、絆の寿命が尽きることは無いと、そう考えているのです。

心の寿命という大切な人との時間も大事にしなきゃいけないですね。

そしてもう1つの絆の寿命を大切にして、忘れないこと、いつまでも記憶していることが、永別の悲しみから私たちを救ってくれる、万人共通の方策だと信じています。

記憶の中に残っている限り
死に絶えることはない記憶の寿命が
絆の寿命かと。(^_^)b


少々生意気なことを書きましたが、コキコキと身体を蘇らす工夫をしながら古希を眼前にとらえているオジ(ィ)サンの四方山話と思って、さらりと聞き流してくださいね・・・聞き流す・・・読んでいるだろうけど。😂


ってことで、今回は
心の寿命を提言されている記事を読んで考えた記憶の寿命という命の絆のこと。」という命の絆の話でした。^^
※見出し画像のイラストは、メイプル楓さんからお借りしました。



では!

別れても  記憶に残し  のほほんと


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