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黄金の夏休み

イトコたち
「子どもの数が減ったなぁ」
家系図を作りながら、つぶやきました。

母は15人きょうだいです。
無事に成人したきょうだいは9人。
1名が生涯独身。
8名が結婚し、2〜3人の子どもを持ちました。

だからイトコが、たくさんいました。
夏休み、冬休みに母の田舎の広島県に行きますが、
知らないイトコや、母と変わらない年齢のイトコなどが、たくさんいました。
そのイトコたちには、もうずいぶん会っていません。

田舎の夏休み
私が小学生時代のある夏休みに、父が言いました。
「いったい、この家には何人が泊まっているだろうか・・・」

お盆やお正月には、田舎の家に泊まって行く親戚も多い時代でした。
その日も部屋という部屋に布団が敷かれています。父と母は、2人で、指を折りながら、名前をあげていきました、「33人いる!」と叫びました。
どこに誰がいるのか、分からないぐらい広く古い家でした。


バスが走る国道から、急な坂を登っていくと、その山の上に母の実家が、ありました。
目が覚めて外に出て、庭先から見おろすと、谷底に見える国道、川、向かいの山側に線路が並んでいます。朝の澄んだ空気をの中に、ゼィーゼル機関車の汽笛が響きます。いよいよ夏休みの始まりです。

朝ご飯は、NHKのニュースが流れる中
大きな丸いちゃぶ台でみんなで食べていました、
人数が多い時は、テーブルにつけない人もいたので、おそらく何部かに分かれていたでしょう。時に子どもはこっちで食べなさいと、違う部屋に誘導されていました。
一段落したら国造沿いのポストまで、みんなで朝刊を取りに行きます。
先頭に大人がいて、そのあとを子どもや犬が、ぞろぞろとついていきます。


頃合いを見て、国道に沿って流れる川に泳ぎに行きます。
岩の上から川の中に飛び込みます。
母たちはタオルを広げて魚(ゴリ)を取ります。

川の端が陰ってくるころ、少し肌寒さを感じ、
「そろそろ帰ろう」となります。

朝は勢いよく駆け降りた、坂道を、水遊びのあとのだるい体を引きずり
山の上にある祖母の家まで登っていくのです。
「ああしんど」
縁側でスイカを食べて、昼寝です。


夜は花火大会です。父が職場で、大阪松屋町筋の花火の問屋で大量購入して持参するのです。物干しに吊り下げ花火を、暖簾のようにぶらさげて、父が次々に火をつけていきます。どんだけ火をつけてもなくならないぐらいの花火がありました。

でもいつも最後は、線香花火です。盛大な花火大会のあと、みんなは口数が少なく、じっと花火が燃え尽きるのを眺めます。いつも少し寂しくなるのです。

昼間にみかんの木の根っこで見つけた、もうすぐ羽化しそうな蝉の幼虫の羽化を、みんなで見ていたこともありました。子どもや大人に囲まれながら羽化したセミは夜空に飛んでいきました。

夜空には星が降るように見えました。ゆっくりと弧を描く光るものがありました。
「あれは人工衛星だな。」母の長兄にあたる物知りのおじさんが教えてくれました。みんなで飽きるまで空を見ていました。

黄金の夏休み
「子どもの頃の夏休みは、最高に楽しかった。」
普段は仲が悪い弟ですが、意見が一致するのは、子どもの頃の夏休みのことだけです。

サワガニを取ったり、沢を石を積み上げてダムを作ってみたこともありました。
お風呂は五右衛門風呂で、湯船に入るのに、ちょっと勇気が必要でした。

ヤギを飼っていて、ヤギのうんちはチョコボールみたいだと、バカみたいに笑っていました。おばが作る、ヤギの乳の謎のミルクシェイクには、どうしても飲めなかった。

小さなイトコをキャベツの段ボールにいれて、畑に置き去りにして泣かせたり。夏休みの宿題は、持っていきますが、田舎にいる時は、手に取ることはありませんでした。

たくさんの思い出の詰まった家は、火事で無くなりした。
母家も蔵も、ヤギ小屋もなにもかもこの世から消えました。

それからまた月日が流れて、祖母も、おじさんたち、おばさんたちも亡くなっていきました。人工衛星のおじさんとヤギのおばさんが亡くなった時に、私たちの子ども時代が、本当に終わりました。寂しいけれど、黄金の夏休みの思い出は、いまでも色鮮やかです。私は生きている限り忘れません。



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夏の思い出

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