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今悩む少年と若者へ。 君は120%やりきったか?

突然だが、私がプロボクシングジムを出した経緯は、この業界が嫌になり、ボクシング業界と決別を決意し、この世界を辞めると決めた事を端に欲する。

2008年の10月。私が39歳。
これ以上、この世界にいたくないという想いが、当等限界に達した私は、それまでプロボクシングを教えていたジムに行く。

「真面目にやってるのは僕だけじゃないですか。馬鹿馬鹿しいのでもうこれで辞めさせてもらいます」。

それまでお世話になった会長にそう伝え、さあ暫くゆっくりしようと思い、本来は楽になる筈だった。

しかしこの時点で、私が教える選手の試合が2つ決まっていた。

即ち2008年11月3日、Aという選手。
同年同月24日、後にYANAGIHARAジムの長男となる、松尾佳彦の試合。

私は彼らを呼び、この業界から去ることを伝え「お前達の試合迄は責任を持って指導する。その後は俺が付き合いのある、大手のジムにきちんと移籍させてやる」。

彼らを焼き鳥屋に呼び、そう言うと彼らはこう言った。
「自分達は、バイトっすから、どこでもいいすよ」。

「ん?お前ら何か勘違いしてないか?」

よく聞くと、彼らはこう言う解釈だった。

自分達はバイトだから、何県でもいい。柳原さんが付いてきて教えてくれるのならジムはどこでもいい。そう言う事だ。

「ちょっと待て。北九州から出たら、俺は会社が北九州で食い扶持はない。俺はこの業界、つまりボクシングを辞めるの!」。

そう言うと、お通夜の様になった教え子を見て、確か2日程経過した時。何故か私は、プロ加盟に向けて走り出していた。

この子たち以外の選手もいた。だから気持ちは辞めたいのに、私は反対の道に行く事となる。

ジムの場所は、無料で提供してくれた人がいた。

しかし正直、ボクシングジムとしては場所が良くない事。
そしてタダより高い物は無い、と言う事。

これが気がかりだった。

後にこの予想は当たる事になるが、当時は場所を貸してくれた人の会社の危機や、幹部教育を無償で行う。

朝から120%の力でこの会社の仕事を行い、ジムで指導をした。

しかしいつも楽しかった。

「男は仕事がない事が1番の不幸だ」。
普段は喋らない父が、何度となく私に教えてくれた唯一の言葉。

ジムを提供した会社の仕事を、朝7時から夜11時半まで、毎日手を抜かずやった。勿論ノーギャラだ。

とてもじゃないが、普通の神経でやれる事ではなかったが、兎に角毎日ひたすら限界を超えてやった。
こうして私は実は限界なんかない、という事を知る。

17時から22時迄が、ジムで選手を指導する時間だが、そんな事を2、3年繰り返し、とうとう来るべき事が来た。

目を開けたまま立って指導したり、寝言を言いながらミットで選手のパンチを受ける、という日々。

そんなある日、小学生がジムに入会した。
この子は真面目で素直なので、マンツーマンで猛特訓をした。

ある年、この子をアマチュアの大会に出す。出すからには絶対1位を獲らせたい。

これが冒頭の写真にある、当時の悠太郎で中学2年の時、初出場でアマチュア15歳以下の大会で、見事全国チャンピオンとなる。

彼はその後、日章学園ボクシング部に行き、推薦で駒大のボクシング部に行った。大学一部リーグの副キャプテンとなり活躍する。

その間プロの方は、4度目のチャレンジを掴み、韓国バンタム級チャンピオンを下した松尾佳彦が、日本ランキング入りを果たす。

こう書くと順風満帆の様に聞こえるが、人間のやる限界を超えている、と私を見た友達は呆れた。

何故、そんな事をしたのか。

欲しい夢を手に入れるには、人の何倍も働き勉強し、人に悟られぬよう働く事が、我々凡人の行う、当たり前の事だと信じるからだ。

25歳を過ぎて私は起業したが、それから現在に至るまで、人を羨ましいとか、ああ、あいつはいいな、と思った事は一度もない。

努力というものもした事はない。
只々、夢中になり120%の力で、走り続けただけの様に思う。

振り返ってみると、自分の為に頑張ったのは、30歳までだった気がする。

その後は選手や友人、お世話になった人の為なら、何故かひたすら頑張れた。

努力とか自分は人より苦労した、という事はいまだに思わない。

平凡な人生が嫌で、あれもこれもと欲張ったのは私のエゴだ。

自分の事なら手を抜く怠け者だが、人の期待に応えたいと思えば自然と立ったまま寝て、寝たまま仕事をせざるを得なかった、としか言いようがない。

そんな生活をし、気付くと松尾はもう40歳手前になり、ジムのOBとして助力してくれている。

悠太郎は大学卒業後、北九州に戻り我がジムでプロデビューした。

普通、東京の一部リーグで活躍した選手は、東京の大手で力のあるジムでプロになるのがこの世界の常識である。

現在、何故こうなったか知らない。

人生半分しか生きてない私も、そして松尾も悠太郎も、今、自分が置かれている立場を、明確に話す言葉を用いていない。

しかしこれだけは言える。

我々はやり切る事だけを考え、生きている。
それは達成と、他の誰かの為に。

今日までやり切ったから、成功でも終わりでもない。
当然あと10年やり切って終焉、めでたしめでたしな筈もない。

死ぬまでやりきり、そして死んでいく。
この間、いろんな坂がある。マサカという坂に落ちることもある。
だから坂を上がる為に、やり切る。そこに幸福がある。

まだ見ぬ何かもあると思う。

自分は頑張った。苦労した。努力した。
自分は運がない、報われない。
そういう事を言う人がいる。

そうだろうか。
少なくとも私は、苦労も努力もせず、只々走り続け、運を動かし報われた。

勉強をし、友情を育み、人に物を聞き、仲間と両親に感謝し生きてきた。これからも同じ事をするだけだ。

人間どれだけやっても、これが正解という事はないと思う。
分かる時は死ぬ時ではないだろうか?

人は幸せになる権利がある。
権利を主張したければ、只々やり切って欲しい。

少なくとも私は未だかつて限界なんか、見た事も聞いた事も無い。

やればやった分だけ帰ってくる。

リミッターなんか振り切れ。
それが若さの特権なのだから、歳を取って苦労する程きつくて、格好悪い事はない。

そしてそうなる者は惨めだ。
若者はリミッターを作らず、よく遊びよく学びよく働くこと。

そして歳を取るほど、幸福という貯金で返ってくる。
世の中とはそういうものだ。




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