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無宗教の日本人が台湾の修道院に潜入、そこで抱いた宗教観に対する知見
マンマ・ミーア!
私はいま台湾の大学にある語学学校に通っている。そこでは多様な人種のクラスメイトと共に中国語を勉強しているが、そのクラスも先日の期末考の終了とともに一旦終わりを迎えた。
前学期のクラスメイトの中にはカトリック系のシスターも在籍している。その子は太陽みたいな子で、同じフロアにいる子全員と仲良くなってしまうような、超絶陽キャである。
例に洩れずその子と仲良くなったところ、「今週の土曜に私たちの修道院でイベントがあるから来ない?」と誘われた。
イベントの前にミサ(礼拝)にも参加させてもらえると言うことで、生まれてこの方無宗教の私からすれば貴重な体験だと言うことで、二つ返事で了承した。
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カトリック教徒はキリストの復活を強く信じ、ミサを通してキリストが実現させた恵みに対して感謝する。カトリック教徒からするとミサはとても重要な習わしであり、その前情報通りミサは厳粛に進められる。厳粛さで言えば、特に私が驚いたのはミサの中で「パン」が持つ重要性だ。
ミサの終盤に、司祭が信者に対してパンを渡し、それを食べる。だが、日本人が流れでアシスタントからパンをもらって食べようとした時、司祭がズカズカやってきて食べさせないようにとアシスタントに忠告していた。
その時は「な〜にをパンくらいいいじゃん」と思っていたが、聞いてみると信者にとってパンはキリストと信者を一つに結ぶための重要な”しるし”であるという。(これのことを秘跡という)
その話を聞いて、「なるほどなあ、熱心に信じているんだな、すごいなあ。」と思う反面、どこか腑に落ちないと感じている自分もいた。
信じている対象がいたとして、それの復活を望むとして、それでいて人生の大半をその「信じる」という行為に費やすとして、果たして幸せだと感じるのだろうか。
「信じる」という行為を生活の軸に置き、結婚もせず、処女のまま死んでいく。あまりにも私が歩んできた人生とはかけ離れすぎている”それ”は、それでいて清廉である。
笑顔が絶えない彼女たちの生活を垣間見ていると、自分の「幸福観」が揺らぐ音がした。
無宗教の私は、一体何を信じて生き、幸福を貪っているのだろうか。
「自分」なのか、「愛する人」なのか、はたまた「万物」なのか。仮にそれを信じたとして、信じなかったとして、私は幸せだと感じるのだろうか。
たった20年しか生きていない私が、せいぜい1000文字ほどのnoteで結論を出すのは不可能である。
だがミサでの経験のように、これからの人生では自分と全く違うバックボーンを持った人と対話し、なるべく理解し、自分の中に落とし込んでいきたい。
そういえば、授業中に「生まれ変わったら何になりたい?」という質問を先生からされた。それに対して、私含めた日本人が「もっとかっこよくなりた〜い」とか、「お金ほし〜い」みたいな回答をする中、そのシスターは「私たちには死後の世界は存在しない」と言い切った。
気になって休み時間に「死んだらどうなるの?」と聞いてみたところ、彼女は「いい行いをしていればそのまま神様のところに行けて、とても快適な生活を送ることができる。」と答えた。
仏教の輪廻転生的な考えとは違う発想ではあるが、とても素敵だと思う。
言うなれば、彼女たちからすれば現世は準備期間なのである。現世でたくさんの富を蓄える必要もなく、ただいい行いさえすれば、永遠の幸せがまっている。なんだ、それも悪くないじゃん。
なので当分私は、たくさんの知見と経験を死後の世界に持っていくために、よく考えて生きていくことにする。
記憶ってきっと液体 かぎりなくうすいきおくをもつ海月だろう
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