見出し画像

国道沿いの二階の部屋

小中学校の頃は長期休みにはおばあちゃんちに長いこと毎年泊まっていた。夏休みは稲刈りの手伝いである。阿波の南部にできたから阿南市だが、温暖なので台風が来る前に収穫する早稲が栽培できる。さすがに刈取りは機械化されていて、おじさんが操るコンバインが稲束にしてくれる。干すためにその稲束を稲木に架けるのが主な仕事だ。天気が良くても繰り返し作業はきつくつらいし、雨が降った後は田んぼはぬかるみ稲穂も重いので重労働だ。

春休みはおばさんと名産のたけのこ掘りである。名人になるには目で探すのではなく足の裏で探さなくてはならない。料亭などへ高値で売れるのはまだ地中にある親指大の小さく柔らかい筍なので、土が盛り上がって柔らかくなっているのを歩きながら感じるのだ。もちろん顔を出してしまった大きくて硬いタケノコも商売にはなる。高校生になるまで行っていたので最後は名人の域に達していたと思うし、こちらはどちらかと言うと楽しい作業だ。

しかし農作業を手伝うために長期宿泊していたのではない。早逝した年上のいとこがよく遊んでくれたからだ。そのいとこの影響を受け「神田川」がヒットする前から「あの人の手紙」に涙して「かぐや姫」のファンになった。タイトルが似ていて名アルバムの「三階建の詩」に収録されていたと勘違いしていたが、解散後の「南こうせつ」最初のシングル「今日は雨」の歌い出しが「国道沿いの二階の部屋では目覚めるときに天気がわかる」だ。

物悲しい失恋ソングだがヒットしていたらもう少し記憶に残っているはず。それにもかかわらず一番をほとんど諳んじて歌えるのは、心地いい曲だっただけでなく中学高校と実際に「国道沿いの二階の部屋」で暮らしたからだ。天気がわかるのは「アスファルトに流れる雨を大きな車が轢いて走る」からと歌っているが、雨音は大抵の寝所で聞こえるだろうと突っ込みたくなる。なぜなら大きなトラックが夜中に爆走してよく目覚めさせられたからだ。

生まれもスダチも徳島」と「続生まれもスダチも徳島」に川と工場に囲まれた北島町で育ったと書いたが、生家は四国で最初に敷設された国道11号の東に面していて交通の便もいい。余談だが徳島に民放が一局しかないのは東から大阪の電波が入ったからなのだが、国道の東側まで隣接した工場の影に入りNHKと四国放送(日本テレビ系列)しか見れなかった苦い思い出もある。だから大阪へ巣立った後にできたケーブルテレビは賠償でただになった。

二階の部屋は最初から有ったわけではなく、奥に一階だけ鉄筋を建て増しした後、死んだ親父は大工だったから少しずつ二回も増築した。内装は凝っていて欄間と襖で区切られた床の間もあったから、アルミサッシ窓の内側には当然のごとく障子もある。しかし障子紙が破れると貼り直すのは面倒だと考えたのか、プラスチック製でしかも固定されてないので大きな車が通ると偶にガタガタと共振した。強制覚醒も懐かしい部屋だがもう家ごとない。

#ふるさとを語ろう

この記事が参加している募集

思い出の曲

ふるさとを語ろう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?