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#33 京都大学を中退した医学部生が世界一周してみた

登山と亡き人ーマレーシア⑧

初日の行程は、それほど体に負担の掛かるものではなかった。

標高4095mの山と言っても、登山口が既に標高1500mの場所に位置しており、初日はそこから平坦距離にして6キロ、高さにして1700m上がった、標高3200mの山小屋に宿泊することになっていた。

登山道には、約1kmごとにShelterと呼ばれる休憩所が設置されており、それを見つける度に、ガイドから数分の腰休めが指示された。




登山を開始してから約5時間後の午後3時、この日の到達地点である山小屋、いや山小屋というにはあまりにも豪華な、「天空のホテル」にぼくたちは到着していた。

標高3200mのホテルから望む、雲海や夕日、また夜空の星というのは、あまりにも素晴らしく、山道を5時間歩く体力があれば、誰にでも泊まる資格のある、世界でも指折りに贅沢なホテルであるような気がした。





翌朝、といっても真夜中だが、山頂に向けてアタックを開始したのは午前2時のことだった。

当然、真っ暗である山道を、手元のトーチで照らしながら歩くことになる。

例のホテルを一斉に出発し、長い列を成す登山者達は、まさに「山頂を目指した行軍」と表現するにふさわしく、それには相応の重荷が課せられた。

昨日の行程でも終盤になると感じ始めていた、標高に比例して加重されていく、息苦しさというものを、常に背負い込みながら歩くことになるのだ。

少しでも自分のペースを乱してしまうと、途端に息が上がってしまう、それはひどく繊細なホメオスタシスの上に成り立っていた。

そして出発時には、山頂を見据えているようでもあったぼくの目線は、次第に角度を下げ、一時間も経たないうちに、視界の中央に現れる右足と左足を、ただひたすらカウントしているのみとなってしまった。






どのくらい歩いただろうか。少し拓けた場所に出たようだった。

出発して以来、久々に上方へ目を向けてみると、登山者たちのトーチライトが、キナバル山の稜線をくっきりと描き出し、まるで山頂までの一本道を、宇宙の彼方に教示しているようだった。

サミットまではもうすぐだろう、と無責任な予感がし、自覚なく歩調が早まっている。


気が付くと、駆け足で山を登りだしていた。


先程までは丁寧に保たれていた心肺の平衡状態が、いとも簡単に棄却され、呼吸と心拍がお互いの調律を無視しながら、勝手気ままに暴れ回っている。

彼らを押さえつけるのには、少しの間スピードを緩める必要があった。


―なぜぼくは走っているのだろう


ふと自分が分からなくなった。


この時のぼくは、自分がなぜこのように、体へ負荷をかけているのかが分からなかったが、後々になってこの登山を思い返してみると、なんとなく理由が分かった気がした。


とにかく、この登山はぼくの人生で初めての本格的なものだった。

それも海外での挑戦だったこともあって、山の頂というのは、十分に異次元の世界に感じられたのだと思う。

標高4000m辺りで、山頂がもう間近に迫ってくると、急に自分という存在がそこに居ないような、奇妙な感覚に囚われていたのだ。

公園管理所から見上げた、幽雄荘厳とした山頂に、まさか自分が立っているということを信じるには、登山の経験が全く足りていなかった。

あまりにも普段の現実からかけ離れた場所にいる自分を主観的に捉えることは出来ず、どこか第三者的な視点から自分を見下ろしているような感覚が気味悪かったのだ。

体が裏返ってしまいそうなほどの過激な運動を強いていたのは、きっとそんな感覚を振り払うためだったのだろう。

自分が自分であり、自分の意思で動いていることを確認するため、過剰な負荷を自分に課していたのだった。




そうして心拍数が、最高値と正常値を何度行き来した後なのか定かではないか、とにかくぼくはたった10人ほどが佇んでいる真っ暗な山頂に辿り着いていた。


午前5時20分のことだった。


心身を落ち着けて、まさに山頂と呼ばれる一つの岩に腰を下ろしてみるが、あまりにも現実と非現実の入り乱れたこの状況に、ぼくの体は山の景色に混じって溶け出してしまったようだった。


その後、朝日を望むのに程よい場所を見つけ、朋也のことを待っていると、段々と空が錆鉄のような渋い赤みを帯びてきた。

それはまた、「燃え残りの木炭のような鈍い赤色」とも表現できそうだったが、とにかく空は夕日とも朝日とも違う、独特の色合いを辺り一面に露出していた。



そして午前5時45分に朋也が山頂に到着して間もなく、先程まで空を覆っていた赤い幕を、針で突き刺すように、黄金色の光が差し込んだ。

―これがご来光ってやつか

続く

第1話はこちら
https://note.mu/yamaikun/n/n8157184c5dc1


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