#35 京都大学を中退した医学部生が世界一周してみた
登山と亡き人ーマレーシア⑩
そして、ぼくの登山より時を進めること、およそ3ヶ月後の201X年6月5日、ここボルネオ島のキナバル山付近で大地震が発生し、18名の方々が命を落とした。
その中には日本人男性も一人含まれていたとのことだった。
6月5日この時のぼくは、ウユニ塩湖で有名な、南米のボリビアという国に滞在していたが、記事をインターネットで読んで、思わず泣いてしまっていた。
ぼくが登山をした3月11日当時の感覚、そしてその記事を読んだ6月5日のそれ、さらにはこの文章を書いている現在の気持ち、この三点を結びつけて、一つの形にするのはひどく難しく、或いは乱暴なものにも成り兼ねないが、やってみようと思う。
とにかく、ぼくの目に涙を溜めさせたのは、記事中に出てきた3つのキーワードだった。
「マレーシア・ボルネオ島で起きた地震で、死者はシンガポール人7人、マレーシア人6人、日本人、中国人、フィリピン人がそれぞれ1人としている。日本の在コタキナバル領事事務所は、死亡したのは登山者名簿に記載がある○○○○さん(29)の可能性があるとみて確認を急いでいる。領事事務所が『公園管理事務所』から受けた連絡によると、日本人とみられる男性はキナバル山の『標高3500メートル付近』で見つかった。公園管理事務所は服についていた『名札』から○○○○さんではないかとみているという。」
(Yahoo! ニュースより一部抜粋・改編)
「公園管理事務所」
前述の通りだが、キナバル山に登るためには、国立公園内に設置された事務所で、登山者としての登録や、各種手続きを踏む必要があった。そういったものを終えると、そこから車で登山道の入口まで行き、登山を開始するというのが一般的な流れだ。
「標高3500m」
亡くなった日本人男性が見つかったのは、標高3500mの付近だということだった。地震発生は午前7時15分だったという。
これも前述の通りだが、キナバル山登山では、標高3200mに位置する山のホテルで一泊することが義務付けられている。このホテルを午前2時に出発して、山頂でのご来光を目指すのだ。
ぼくや朋也が山頂に着いたのは、午前6時前のことで、午前7時には既に下山を開始していたという事実から、その男性が地震に遭ってしまったのも、恐らく下山時のことだっただろう。
山頂付近の路面は、岩肌の露出した、滑落などの危険性が高い区域だったように記憶している。
「名札」
登山者達は、管理事務所で登録を済ませると、名札を渡された。途中にある関所のような場所では、これが通行証がわりとなる。
記事を読んでいる最中、これら3つの単語は、3ヶ月という時間の経過を無視して、ぼくの登山にまつわる思いを触媒し、また地震が起きた時の情景ということまでを、頭の中にありありと描き出していた。
―亡くなった日本人男性も、ぼくと同じく日本人でキナバル山に登る仲間だったんだ
そう感じ、涙が止まらなくなっていたのだった。
登山中、標高が上がってくると、相当辛かった記憶がある。
とにかく一定のペースを保ちながら、自分の心肺を管理する必要があった。
もちろん、そんなぼく達のペースも、他の誰かよりは速く、また別の誰かよりは遅かったが、歩調は違えど皆が山頂を目指し、無限にも思える一歩一歩を踏みしめていた。
競争の中を生きる俗社会から離れ、せっかく登山をしているのだから、そのペースが速い遅いで競うのは、ひどく無意味なことのように感じていた。
―みな仲間同士ではないか
全ての登山者が各々のペースにおいて尊重されるべきだと感じていた。
そんな一体感を持って足を進めていたことを覚えているが、その中でも登山中に出会った日本人には、格別の親近感を抱いていた。
外国の山の上で日本人に出会うのだから、それもそのはずだろう。
そう考えていると、急に先ほどの記事と3つの単語が脳内に蘇り、涙が再び溢れてくる。
一緒に登山をしたわけではなかったが、ぼくがそうやって彼に仲間意識を抱いていたことや、彼の最期の場面が、勝手に頭の中に浮かんでくることが理由だったように思えた。
201X-2年3月11日に亡くなった京都の大先輩、そしてぼくの登山から3ヶ月の後に、同じ山で亡くなった日本人男性、その二人の存在が山頂でのご来光と共に、深くぼくの頭の中に穿たれていた。
とかく、人と人との縁というのは不思議である。
ぼくのキナバル登山及びマレーシア滞在の記憶は、頑として動かずに、故人と縁のある形で、脳の中葉に保存されたのだった。
続く
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