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#44 京都大学を中退した医学部生が世界一周してみた

旅の第二交差点ーネパール③

弱り果てて、日本から逃げ出し早二ヶ月、この時のぼくは、図らずも宗教的な何かに助けを求めていたのかもしれなかった。

チベット仏教というものに興味があったのだ。

もちろん、チベット仏教ということであれば、本場のチベットを訪れたくはあったが、そこを訪れることが困難であったことや、ルート上の問題から、書籍による少しの勉強の後に、カトマンズを訪れ、その風を少しでも感じようというつもりだった。

3月末の某日、ぼくはチベット仏教の聖地である、ボダナートという宗教施設に向かっていた。

細い入口から、奥に大きく広がった敷地内には、巨大なドーム型の物体が鎮座しており、その上には天へ高く伸びる、尖塔が備え付けられている。

そして、その尖塔には、「ブッダアイ」という独特な紋章があしらわれており、その雰囲気をエキゾチックなものに仕立て上げていた。


細い入口を通り、その大きな仙頭が見えるところまでやってくると、皆が一様に、決まったやり方でお参りをしていた。


ドーム中心とした円形の敷地内を、円に沿って時計回りにゆっくりと回って歩くのである。

反時計回りに回っている人は一人もいないようだった。

さらに、人々はそうやって塔周囲を回る最中、壁にいくつも備え付けられた、「摩尼車」と呼ばれる、縦向きに備え付けられた滑車のようなものを、手で回転させながら歩いていた。

なんでも、その摩尼車を回せば、一回分の経典を唱えたことになる、という有り難い法具だとのことである。

事前の知識と、その場での観察によって、お参りの方法を掴んだぼくは、ほかの人々と同じように歩き始めた。




そして歩きながら、あたかもいつもやっているかのように、すんなりと、家族の平和と安息ということについて、何度も何度も繰り返し、祈り続けていた。


その時、歩きながら、そして祈りながら、自分で自分を振り返るのはとても新鮮な体験であったが、

実は生まれてこのかた、自分以外の人間に関して、神様にお祈りをしたことがないということに気が付いた。

初詣などで神様に祈る時には、疑うことも無く、決まって自分の将来、自身の繁栄ということばかりを祈っていたのが、それまでのぼくだった。

とにかく、自分が成功すれば良い、そうすれば家族も幸せであろう、といった強気の将来像を抱いていた。

もちろん、自分が成功し幸せになれば、家族と共に幸せになれる可能性というのは高いのかもしれないのだが、

とにかく、この時のぼくは、気付くよりも前に、いつもとは正反対に、なんの狙いも下心もなく、返事もくれない誰かに向かって、家族に関することを祈り始めていたのだ。


これまでの二十数年間は、一度もやったことがなかったのに、だ。


そして、その事実に気が付いた瞬間、ぼくは突然動くことをやめ、立ち止まって茫然としながら、その祈りの動機を探すように、視線を遠くへやっていた。

なぜその時、その行動に至ったのか、いくら考えても分からなかったし、それは自分が偉いだとか、自画自賛だとかというものとは遠く離れた行動であったように思う。

もしかしたら、それは自分自身の何かではなく、チベット仏教のなせる業だったのかもしれない。

ひたすらに家族の安寧と喜びということを唱えながら、仏塔を囲む摩尼車を回し、周りのことも意に介せず泣きながら歩いていた。


こういった、「家族を祈る」という行為は、他の人にとっては至極当たり前のことかもしれなかったが、自分勝手に赴くまま生きてきたぼくにとっては、とにかく驚きハッとさせられるものだった。

続く

第1話はこちら
https://note.mu/yamaikun/n/n8157184c5dc1


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