短編「そうだっけ?」
朝10時。台所に立つ敏子。
恵美、タオルを頭に巻いてやってくる。
敏子 お湯抜いてくれたー?
恵美 洗顔。
敏子 は?
恵美 洗顔。
敏子 うん。
恵美 うんじゃなくて。
敏子 え、何よ。洗顔が何。
恵美 なんで私のゾーンに置くの。
敏子 ゾーンって何よ。
恵美 下の段がお母さんで上の段が私。
敏子 お風呂の棚のこと?
恵美 棚っていうかラック。
敏子 はっはは。一緒でしょ。
恵美 違うよ棚とラックは…てかそこじゃなくて。お風呂のそれのお母さんの段。シャンプーもコンディショナーもボディソープも、
敏子 石鹸だけど。
恵美 んんん。じゃあ石鹸も、
敏子 ていうかあれリンスじゃなかった? あんたが言ってきたんでしょ。コンディショナーじゃなくてリンスだよって。
恵美 じゃあリンス! いいの今それはどっちでも。
敏子 だってあんた細かいんだもん。言い方ひとつですーぐ怒って、
恵美 お母さんが忘れっぽいからでしょ。で、洗顔の場所。
敏子 なんだっけ。
恵美 決めたじゃん。お母さんは下の段。私は上の段。で、お母さんの洗顔置いてあるのは上の段。つまり私の場所!
敏子 決めたっけそんなの。
恵美 決めた。忘れたの。
敏子 置いてたっけ。上の段?
恵美 置いてた。置いてる。今まさに。
敏子 無意識だわー。
恵美 嘘。わざとでしょ。
敏子 ええ?
恵美 だって私最近ずっとお母さんの洗顔、下の段に移動してるもん。
敏子 はあ。で。
恵美 なのにさあ。お母さん入った後いつも上の段に戻してあるもん。
敏子 洗顔?
恵美 絶対分かってやってるでしょ。
敏子 はっはは。
恵美 え、何。
敏子 あんたお風呂入る度に私の洗顔移動してんの。
恵美 だったら何。
敏子 上から下、上から下って? くくく。マメだねえー。
恵美 だってお母さんがちゃんと、
敏子 気にしなきゃいいでしょ。別に他に誰もいないんだから。
恵美 良くないよ。上の段だけ狭くなるの。お母さんの洗顔無駄にでかくて邪魔で、
敏子 安いんだよあれ。大豆のなんか、成分入ってるやつ。イソジン?
恵美 イソフラボン。
敏子 それそれ。あんだけ入ってて500円だよ安いよねえ。あれがいいよね。あの、ほらなんだっけ。コストポー、ポー、
恵美 パフォーマンス。
敏子 それそれ。コストパフォーマンス。舌噛みそうだわ。
恵美 この話前もしたよ。
敏子 え? そうだっけ。
恵美 すぐ忘れる。コスパって略すんだよって話したでしょ。
敏子 ああそう? コスパね。いいでしょ。あれで500円だよ。ほらこんなお肌つるつるになって、
恵美 なんでもいいけどさ。ちゃんと自分のゾーンに置いてよ。こっちのゾーン入って来られるの嫌。
敏子 ゾーン。
恵美 場所って意味。
敏子 いや分かるけど。
恵美 何。何笑ってんの。
敏子 だって。そんなこと言ったらこの家、私のゾーンですけど。
恵美 (!となる)
敏子 あんたが勝手に上がり込んできたんだもん。私のゾーンに。
恵美 でも実家じゃん私の。
敏子 でも家賃も食費も入れてないじゃんあんた。
恵美 それは仕方ないでしょ。まだ仕事見つかってないだけでこれから、
敏子 そのくせ朝帰りとかしちゃうんだー。
恵美 うるさいな。別にいいじゃん子どもじゃないんだから。
敏子 先月もあったよね。
恵美 先月もって。そんなしょっちゅうじゃないでしょ。いいでしょ時々は。
敏子 じゃあ、いいでしょ時々は。洗顔。
恵美 時々じゃないから言ってるんだって。
敏子 あーはいはい。はいはいはい。はーいはいはい。
恵美 ちょっと。直す気ないでしょ。
敏子 あるある。はいはい。はい、と。
はいはいで変なリズムを取る敏子。
いつの間にか食卓には朝食が並んでいる。
敏子、炊飯器を開け、
敏子 どれくらい。
恵美 八分目。
敏子 はいはい。はーいはい、と。
恵美 あ、やっぱいい。自分でやる。
敏子 あ、そ?
恵美 お母さん無駄に入れすぎるから。
敏子 ご飯あるだけ感謝してほしいわ。
恵美 してる。してます。感謝。いただきます。
敏子 あ。この煮物全部食べちゃってね。
恵美 えー。
敏子 えーって何。感謝してるんでしょ。
恵美 してるけど…
敏子 ならちゃんと消費してください。
恵美 ねえ別につるつるじゃないと思うよ。
敏子 え、何。
恵美 肌。
敏子 は? 何の話。
恵美 洗顔。
敏子 まだ言うの。
恵美 イソフラボン。500円の。
敏子 お得でしょ。
恵美 でも、つるつるではないよ。
敏子 何つるつるって。
恵美 言ってたじゃんさっき。(真似して)こーんなお肌つるつるになってえって。
敏子 言ってないよ。
恵美 言ってたよ。また忘れたの。
敏子 こーんなって、そんな馬鹿っぽい言い方してないでしょ。
恵美 いいんだよそんなディテールは。
敏子 何。D?
恵美 ディテール。いい、いい。覚えなくて。どうせまた忘れる、
敏子 あ、ディスってんの?
盛大にむせる恵美。胸をトントンやる。
敏子 すぐ忘れるって。記憶力ないって。
恵美 (むせている)
敏子 横文字苦手って言いたいんでしょ。
恵美 言って(ない、と言いたいがむせてる)
敏子 あれ。何。どうしたの。
敏子、恵美にお茶をやる。
お茶を飲む恵美。
敏子 何。詰まった?
恵美 (飲み干して)どこで覚えたのそんな言葉。
敏子 ええ?
恵美 ディスってるって。
敏子 ああ。はっはは。それでむせたの?
恵美 なんでそんな言葉だけ知ってんの。
敏子 だけって何。失礼な。
恵美 いや、だってこんな今どきの横文字、
敏子 あんたが教えてくれたんでしょ。
恵美 え?
敏子 いつだったかな。ついこないだ。あ、ほら二人でドラマ見ててさ。出てる俳優の演技がまあーひどくて、
恵美 え、え。そうだっけ。私?
敏子 うん。忘れたの?
恵美 ……
敏子 忘れたんだー。
恵美 それほんとに私?
敏子 他にいないでしょこの家。
恵美 まあ…ふーん。
恵美、不満げに食事を再開する。
敏子 すぐ忘れるよねー。
恵美 うるさいな。
敏子 記憶力。
恵美 お母さんよりはあります。たまたまです今日は。
敏子 はっはは。誰に似たんだか。
恵美 ……他にいないでしょ。
敏子 ん? ふふ。
恵美、煮物を全部食べ切って。
恵美 てか。お母さんのそれはあれだからね。加齢もあるからね。
敏子 ん? カレー?
恵美 ……わざとでしょ。
敏子、けらけらと笑う。
おしまい
・・・
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