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創立100年☆学び舎のルーツを知る

最近、母校のキャンパスを訪れる事が多くなりました。大学のOB会のお手伝いをしているからです。キャンパスは私を青春の頃に誘ってくれます。その思い出はすべて青春の甘酸っぱい記憶に繋がるのです

教授や学友とのめぐり逢い、キャンパスでの学び、アルバイトの経験そして恋愛までも、すべてが私の人生に様々な彩りを添えています。大学生活の4年間は私の人生にとってかけがえのない歳月です。

喜びも悲しみも、失なった恋も何もかもが、私にとって貴重な経験となって未熟な私を成長させてくれました


忘れられない大切な時間を過ごした母校の松山大学が、今年で創設100周年を迎えました
大正12年1923年に松山高等商業学校として創立し、その後松山商科大学となり、1989年松山大学に改称され総合大学になりました。

100周年の節目に大学の始まりをシンポジウムで伺う機会があり、私は、大学の始まりをきちんと把握しないで学んでいた青春の頃を思い返して、少し申し訳ない気持ちになりました。
今になって知る事がたくさんあるのです。



私たちの母校には創立に尽力した3人の人たちがいます。その人たちに敬意を示し、継承するためにその三人は「三恩人さんおんじん」と呼ばれています


正岡子規の叔父である加藤拓川かとうたくせん
明治、大正と一代で富を築き、篤志家として大学の創設に巨額の費用を寄付して尽力した新田長次郎にったちょうじろう
松山大学の前身松山高等商業学校の初代校長を務めた加藤彰廉かとうあきかどこの3人です。

その誰が欠けても、松山高等商業学校は誕生していなかったでしょう。

当時松山市長を務めていた加藤拓川の要望を受け入れて、巨額の資金協力をした実業家の新田長次郎、そして周りから懇願されて初代校長の座に就いた加藤彰廉は、黎明期の松山商業高等学校の礎を築き、校訓の三実「真実・実用・忠実」の教育理念を掲げた人です。

地方の教育がまだまだ遅れていた時代に、郷土の産業や文化の発展のために教育の場所を作ろうと、それぞれの立場で奮闘した先人の想いを大学創立100周年と言う機会に知る事になりました。
こうした先人の想いを大切に伝えなければと改めて思っています。

大学を卒業して46年、今の年になってこうした思いにたどり着きました。大学創立100周年が、創設した人々に想いを馳せる機会を与えてくれたことに感謝です。

この思いを今の学生たちにも伝えなければと思いました。


【毎日がバトル:山田家の女たち】

《先人の想いは大切に伝えんと》

※92歳のばあばと娘の会話です。

「あんた、大学の始まりがきちんと知れて良かったねー、語り継いどったら折に触れて思い出さし、先人の想いは大切に伝えとかんといかんねー」

「本当に、明治の人の気骨は凄いな、郷土のために大学を作ろうなんて、思っても実現させるのは本当に大変だったと思うよ」

「立派な人が居ったんじゃね」

一つの事を成し遂げるために、それなりの人物が繋がっていた、それは時代の必然だったように思います。


また明日お会いしましょう。💗



最後までお読みいただいてありがとうございました。
たくさんある記事の中から、私たち親子の「やまだのよもだブログ」にたどり着いてご覧いただき心よりお礼申し上げます。
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また明日お会いしましょう。💗





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