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吉野家の牛丼と、わたしの人生。(後編)

こんにちは!やくしまです。

でこぼこキャリアの変遷、そして今を書きます。

前編はこちら



下積み時代と、1杯の牛丼。

原宿のマンションの一室でバイトをさせてもらいながら、わたしは少しずつ心身を回復させていった。

季節が過ぎ、秋も深まった頃。わたしは転職活動を始めた。始めたというか、1社だけ面接を受けて入社を決めた。未経験の、そして憧れの広告業界だった。

「いい会社に入ったね!」大学時代の恩師をはじめ、周囲にそう言ってもらえた。うれしかった。3社目の正直、ようやくスタート地点に立てた!

しかし条件は厳しかった。

業界では名の知れた会社だったから、応募者はたくさんいたんだろう。雇用契約書を渡されてみれば、契約社員からスタートで、もうすぐ25歳を迎えるわたしの月収は新卒レベルだった。

正社員と思い込んでいたわたしは動揺した。給与だって前職より低かった。「あなたみたいなレベルの人を、ウチと同じ待遇で雇ってくれる会社なんて…」あの言葉が脳裏にチラついた。わたしは条件を受け入れた。

収入が減って真っ先に削ったのは食費だった。半年間の無職生活と引越しのため、貯金はゼロだった。

もやし、うどん、食パンにはよくお世話になった。お肉が食べたい時、吉野家に行くのはきっと給料日のあとだった。あの頃の牛丼は1杯いくらだったんだろう?


牛丼はいつでも、食べられるものになった。

いつ契約が切られるかビクビクしながら過ごした。正社員になれる自信はなく、仕事はハードで、何度も「もうダメかもしれない」と思った。

結果からいえば、わたしは1年後に正社員登用してもらえた。

この会社ではほんとうに多くを学んだ。いい仕事に恵まれたし、いい人たちばかりだった。右往左往、ジタバタ、もがくばかりのわたしを育ててくれた優しい上司。先輩。クライアント。そして同僚。

7年半在籍した。この間に恋愛もして結婚もした。木造ボロアパートは引き払って2人暮らしを始めた。ダブルインカムで暮らしに余裕も出てきた。周囲の応援もあって、わたし自身の年収も入社時から170%UPしていた。

こうして牛丼はいつでも食べられるものになった。



24歳のわたしへ。
10年後のわたしは無職だけど、無敵だ。

2014年の夏から10年後、34歳のわたしはまた無職になった。

会社員を辞め、フリーランスになる決意をしたが、最初の案件が白紙になったからだ。

遡って32歳の時、わたしは広告会社から別のベンチャー企業に転籍した。これが失敗だった。

不可解の連続だったし収入は激減した。あの時べつの内定をくれた大手代理店を選んでいれば!あのまま広告会社に在籍していれば!何度悔やんだかしれない。だけど選んだのは自分だ。

会社の事業縮小が発表されたのは2024年の春だった。ああそういうことか。スッキリした。おかしなことがハッキリとわかったから。

わたしは個人で稼ぐことにした。

はじめて稼いだお金でMacbook Airを買った。このnoteもそのMacで書いている。

会社を辞めフリーランスになります!

そう言って手探りで営業活動をした。以前の勤め先の広告会社にも赴いた。彼らは身勝手に自己都合退職して失敗したわたしを受け入れてくれた。

「外にでて色々学んできたんだね。」
「きっと前よりもっとレベルアップしたね。」

24歳のわたしへ。10年後のわたしも無職になる。
だけど、あの時あなたが頑張ってくれたから、未来のわたしはひとりじゃ、ない。

一緒に仕事ができて楽しい!と言ってくれる人がいる。Macbook Air代くらいは回収してほしいから!と新しい仕事をくれる人がいる。

隣には穏やかな夫。
家は、安心できる場所になった。

明るい清潔なキッチンで心ゆくまで料理をしたっていいし、ほかほかの牛丼をこころおきなく頬張ることだってできる。

責める人は誰もいない。わたしも不用意に傷つけられたりしない。

だから、大丈夫。

***

最後まで読んでいただきありがとうございました!
そんなこんなでフリーランスをやっています。人の数だけ物語があるのだろうなあ。

前編はこちら。

書いた人:やくしま
1990年生まれ。クリエイティブ業界で働く企画職。体力なし子につき、コロナ禍をきっかけにフルリモートに移行。勤務先企業の事業縮小から思いがけずフリーランスの道へ。在宅ワーカーやフリーランスの働き方アレコレを発信しています。


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