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【エッセイ】ミノタウロスの首、の付け根


 未来というものは、新幹線に乗る乗客が時速300kmを体感せず、数時間後に目的地に到着してしまうように、今との境界があいまいなものだ。
 過去、現在、未来という区切りだって、一蘭のパーテーションみたいなものだ。ただの仕切りであって、ぼくらが勝手に区切って呼んでいる。だから、今も未来は無意識に進んでいる。

 現在から地続きに進んでいく未来を想像してみる。僕が最もわくわくするのは、未来の「職業」についてだ。職業の歴史がもともと交換にあり、他の人や世の中に対して価値を産み、生きていく対価を得る作業だと定義するのであれば、その職業の定義も日々、ゆらいでいる。そのゆらぎを想像してみるのが、楽しい。

 例えば、いまは仕事になっていない仕事が、あらわれる。それは夏休みの自由研究が、一生をかけて探求する壮大な研究テーマに拡大するように、自由さと軽やかのある未来を想像させる。
 プロゲーマーがいつの間にかロボットのパイロットになったり、仮想空間の中での教育事業によって、先生が地域差や言語の違いを越えて自由な学習を進ませたり、AIにも心理カウンセラーが必要になったり、もう一度感じたい感情や思い出が処方されたり、環境の専門家が実験地区をつくり移住を提案したり。どんなものでも、職業のタネになる。

 ふと思う。反対に、現在、僕たちが当たり前のように職業と呼んでいるものも、かつては同じだったんじゃないか、と。
 今ある職業も、農業革命や産業革命、情報革命を経て、新しく生まれた産業であり、当時は新しい職業だったのだ。遊びが、どこから職業になるのだろうか? その変化点はどんなものが契機となるんだろうか? どこから見る人の目や、世間の潮目が変わるのだろうか?

 やっぱり「職業」や「仕事」っていうもの自体が、不思議な感覚だと思う。自己の問題っていうか、存在にかかわるっていうか。僕たちがじぶんで、しごとがあると思えば、きょうのしごとは存在するし、何もないと思えば、きょうやるしごとは存在していない。その視界の拡がりや、発想の柔軟さをどんな未来であっても忘れちゃいけないっていうか。

 僕たちはこれからの未来でそれを自分の目で見るし、体感するわけだけど、ギリシャ神話のミノタウロスの首の付け根や、ケンタウロスの胴の付け根のように、僕はその変化過程や、付け根に注目して、見てみたい。世の中が変わる音に耳を澄ませてみたい。
 気が付いたら、僕が知らないうちに半獣に変化しているかも。


(了)



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