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物語のある食卓

以前、私のおうち(山形に移住する前に暮らしていたおうち)に来た友人にこう言われたことがあった。
「やぎのおうちにあるものはみんな物語があるね」。

そのときはたぶん「そうかなぁ」とそこまで深く考えず返事をした気がするけれど、私のおうちにあるもの、特に食や料理にまつわるものにはたくさんの物語が詰まっていて、数年前にお菓子メーカーに転職してから&山形に来てから、その物語たちがより濃いものになった気がする。

出かけたり遠出や旅をするのも大好きで「毎週どこかに行ってるね」とか「フットワーク軽い(家にいなさそう?と思われている?)とも言われるけれど、おうちで過ごす時間や仕事をしている日のふつうの料理、ごはんも大切。そして日常で使うもの、食べるものや料理に使うものは愛着や思い入れのあるものであってほしいのだ。

写真を撮ったり(ほぼiPhone)、日記のように文章を書いているのはだいたいインスタなので、インスタを遡ってみて、この数年くらいの私の食卓を振り返ってみようと思う。

コロナ禍で外食が難しかったころ、近所だったお気に入りの飲食店「のらぼう」さんでテイクアウトをしたら、たまたまこの日だけ(?)先着順でもらえたブーケ。都会で暮らしていると野の花を購入する機会はあまりないと思うので、とてもうれしかった。
お花も食卓を彩る大切な要素のひとつ。
そしてこのマグカップは数年前の誕生日に自分へ贈った服部克哉さんのもの。このマグを買ったときはとてもしんどい時期だったので、そんなころを一緒に乗り越えてきた相棒。少し大きめのサイズとさわりごこち、夜空みたいな雰囲気にぐっとくる。数年経っても「やっぱり好きだわぁ」と、毎朝このマグでカフェオレを飲む。

ふだんは日本のうつわを使うことがほとんどだけれど、丈夫だしアンティークのものっぽくも見えるイタリアの「ボルゴノーヴォ」のグラスと、自分にしては珍しいセレクト、ノルウェーのブランド「figgjo」のプレート。
ボルゴノーヴォのグラスに注げば、お水も缶ビールもなんだか特別なものに見えるし、高価に見えるけれどリーズナブルなのもうれしい。
実はプレートは使いこなせなくて指折り数えるくらいしか使わなかったので、山形に引っ越す前に友人に譲った。少し前に友人が使ってくれている様子をストーリーでupしてくれていてうれしくなる。

実家で最後に家族でわたしの誕生日を祝ったときの写真。フルーツタルトは母とわたしの希望。見えにくいけどドラゴンフルーツもトッピングされていて、沖縄の気候みたいに色鮮やかなタルトだった。

ここは実家の縁側なんだけど、実家にお暇しているときは、よくここで簡単なワンプレートのお昼を食べていた。ベランダとか外で食べるごはん、ピクニックも大好き。

自分のためにフルコース料理(的なもの)を作った日。
こんなふうなごちそうを作るときは決まって、フルーツを使ったサラダを作りたくなる。
手羽元がのっている黒いうつわははじめて行った益子陶器市で買ったもので、SUNAOのカトラリーはこれまた西荻でお気に入りの飲食店「da Rio」で使われているのを真似た。
カトラリーの新調はかなり慎重に(ギャグですか…)考えた。
SUNAOに決めたのは、和のうつわや和食にも合いそうだったから。

お気に入りや心惹かれる飲食店を参考にすることも多い。
外食は娯楽や贅沢だけでなく、学びの場ととらえている。

元同僚からお誕生日に贈ってもらったお米。なんと私の誕生日の日が精米日!
お菓子や調味料などは自分も贈ることも多いけど、これはとても粋な贈りものだなぁと思った。精米日の紙はいまでもとっておいているし、わたしも真似したい。すてきな贈りものを贈れるひとでありたいのはずっと目標のひととつ。

友人の誕生日をわたしんち(前の)でお祝いしたときの写真。
お椀は鯖江のものづくりイベント「RENEW」で購入した漆器。(漆器デビューでもある)
このころ山形への関心がまっていたので、現地で買ってきたおみ漬けや玉こんも。

社会人になって料理をするようになってから、友人を自宅に招いて(招いてもらって)料理を食べる集まりがずっとしたかったけれど、最初はそういうことに関心がありそうなひとが周りにいなかった(?)し、家にあまり人を呼びたくないとか料理があまり好きでない、関心がない人もいるだろうから、家族やパートナーでなくても、互いのおうちに行ったり料理を作りあう友人ができたことは人生の宝だと思っている。

見えづらいけど、お箸置きは中国のお菓子の型で作られたものらしい。お箸置きのちいさな世界観にも心惹かれる。

山形に来てからも、ときどき友人をおうちに招いている。
農家さんや職場の方から夏野菜をたくさんいただき、それらで乗り切った夏。
きゅうりのお漬物は友人が持ってきてくれたもので、奥にあるガラスのうつわは、古いおうちによくある昭和型版ガラスをリメイクしたものらしい。わたしのお気に入りは「銀河」というデザインで、それをペアで購入した。

カレーがのっている小鹿田焼は西荻の「ぷれま」で譲っていただいたもの。
なぜか小鹿田焼は自分の食卓には合わなそう(?)と勝手に思っていたけれど、パスタやカレーなどの一品料理に大活躍している。ときどき自分の中の常識みたいなことから外れてみるのも楽しい。

農家さんからいただいた原木なめこを入れた芋煮。
きのこ採りに3回も連れていってもらった。最近デートしてないなぁ。(70代の農家さん)
農家さんとはきのこ採りのときに、自分が高校のときに学校になじめなかった話とかもして何だか不思議な感じだった。山形に来てから、知り合って間もない人と、自分の暗いというか、あまり活力のない時期の話などもする(できる?)ようになった気がする。
ちなみにこの土鍋は、新卒で勤めた会社の同期のおさがり。当時「あんま使わないからあげる!」くらいのノリだった気がするので、10年以上も使っているとは思いもしないだろうなぁ。

ここまで書いてみて思ったけれど、私の食卓は特別で華やかなものというわけではなくて、食べることや時間、使う食材やうつわ、料理をすること、関わるひとも含めて「自分の心が満ちるように、食や料理の過程を選択する、楽しむことに前のめりでいること」で物語が作られている気がしたし、それは暮らしを明るくする。外食も気分が上がるけれど、自分でつくる食卓の時間がないとわたしは生きていけない。
そして、食卓の物語は写真で紹介したような、すてきなうつわを使ったり、感性の合う友人に恵まれていること、食材を贅沢に使うことだけではないとも思う。
割引のお惣菜をパックのままで食べることもあれば、とにかく何もしたくなくてuberを頼んでぼさぼさの姿でマックを食べることもあった。泣きながら袋麺を雪平鍋からすすったこともあるし、今でもときどきごはんについて何も考えたくない、何もしたくないときもある。数年前はそんな日も多かった気がする。でもそれも食卓のひとつの物語だとも思っている。

実はこの記事をかいているのも、もやもやした気持ち(何かトラブルがあったとかではなく、自分の中での悩みや葛藤です)がなかなか晴れず、ぐずぐずしていた(数時間前まで)

んだけれど、それでいつまでもふてくされたり、何もせず鬱々としていてもしょうがないと、いただきものの黒豆をむいたり、はじめてにんじんの葉で「切り和え」を作ってみたり。それで少し元気になってきたというか、本来の自分に戻ってきた感覚があって「あ、やっぱり食卓をつくる時間が自分をつくっているな」と思えたので、言語化してみようと思って書いてみた。
また、食卓を作る時間だけでなく、その時間や物語を写真や文章で伝えることも、自分にとっては救いで、伝えることでも支えられている気がする。

自分にとって食卓は、生命を持続させるための行為(食べないと死ぬ)ではなく、自分がより良く暮らし、人生を楽しむために不可欠なことであり、食を通して人とつながったり喜びを分かち合う、食にまつわる、自分が心動く食卓での物語を伝え続けていくことなのかも。

これから先、暮らす場所(おうちだったり拠点とか)や一緒に過ごす人も変化していくかもしれない。もっと歳を重ねたらたくさん食べられなくなったり、高齢になったら健康上の理由で食べられないものが出てくることもあるかもしれない。

どんなことがあるかわからないけど、ずっと自分の食卓を楽しんでいきたい。
「これでいいや」じゃなく、「これがいい」を大切に、「食卓の物語」をたくさん作って伝え続けたい。


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