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母が死んだ時の話

2022年9月7日 

文章を書くのも読むのも好きな方ではないが、気になる本があれば買ってしまうので家にはたくさん本はあるがほとんど読めていない。そんな自分がnoteをしようときっかけを書くと長くなるので今日は辞めておきます。

母が死んだのは2010年12月22日でした。
今思えば、母が死んだことが今までの人生で一番衝撃的な事だったと思います。母は、2009年の秋頃に膵臓癌でステージⅣと医者から診断されました。当時私は、大阪芸術大学の副手をしながら少しでもいい画材を買う為に早朝のスーパーでアルバイトをしていました。能天気な私はどうせしばらくしたら治るだろうと思いあまり深く考えず自分の生活に追われてましたが、徐々に事の重大さに築き母の為に何か出来ないかと考え、アートを一生続けて行こうと思っていたので神戸で人生初めての個展を母に見てもらう為に開催しました。個展が開催されたのは癌宣告されて半年少しでしたので、ふくよかな母でしたがガリガリに痩せていました。今思えば、無理に個展会場まで連れて行ったかもしれない。またその時から今でも制作している鉄錆を紙に転写する方法で制作し始めた事を覚えています。またしばらく経ち、韓国へアーティストレジデンスに行く話が決まりました。母は入院しており状態はいい時と悪い時の差があり、モルヒネを打たれて意識が朦朧としていました。常に辛そうな表情をしていた母にレジデンスをした時に急に元気な口調になり、「どうせあんたがここにおっても何も変わらないし行っておいで、そんな事より、最近調子がいいから退院出来るかもしれないから、ここ退院したら何食べたい?」等話ました。この会話がまともに話せた最後の会話になりました。三週間の韓国レジデンスが終えて12月21日に日本に帰って来ました。その足で直ぐに神戸の母が入院している病院に行きました。すると。人工呼吸器をつけて今でも死にそうな母がベットに横たわっていました。色んな思考が交差して頭が真っ白になり、自分がこんな時はどういうリアクションをとればいいのかわからなくて、自分で自分を演じているかのような気分になりました。父親から「一時期、本当に危ない時期があったけど、お前に電話しても繋がらないし、どないなっとるんや。もうここまでなったらもう決まったようなもんやし、間に合ってよかった」と言われました。妹も父親も泣いておらず、まわりにいた看護師の人がすごい泣いており、つられるように母も薄っすら涙が出ていた事を覚えています。そのまま今夜は、病院で泊まりました。看護師の方からは「お母さまは、電気つけて寝られていましたが、電気を消していいんですか?」と言われましたが、私はあまり考えず「電気を消した方が寝れるじゃないですか。」といい電気を消しました。夜間は何もなく過ごしましたが、昼間にかけて状態が急に悪くなり、母方の祖父祖母が来てしばらくすると風船がしぼんだかのようにそのまま息を引き取りました。この瞬間もまたどういうリアクションをとればいいのか分からなくなり、頭は冴えているがあまり思考出来ない状態になりました。
23日の天皇誕生日がお通夜で24日のクリスマスイブが葬式になり、世間では楽しそうな雰囲気でしたが、私の心は何とも言えない状態でしたがせっかくなら、どうせ死ぬなら笑顔で送りだした方がいいような気がしました。後から妹から言われた事ですが、「お母さん、入院中も退院する事をずっと考えていたらしくて、私にすき焼きの道具とかどこに行ったのか聞いてきた。入院中に迷惑かけたから、いい肉買うとか色々計画立ててたらしい」と聞きました。私は母らしいなぁと私は思った。また、だいぶ経って思ったことだけど、21日の夜、電気を付けて寝ていたら母はもう少し生きれてたのかもしれないと考えてしまいます。


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