鎌倉 3 〜 都会の喧騒の中、今回の小さな旅を思い出す。耳の奥には、まだ…
この投稿は2022年12月4日にAmebaで公開した記事の再掲となります。
こちらの続きです。
昨日見た夕日が幻だったかのように、次の日の夜に私は雨が降る夜の渋谷にいた。
夜9時のスクランブル交差点、進むことを拒むかのように、パラパラと雨が降っている。
都会の喧騒の中、今回の小さな旅を思い出す。
耳の奥には、まだ波の音が響いているような気がした。
3日目の鎌倉、今日が最終日だ。
朝、私に鎌倉の夕日のことを教えてくれたスタッフの女性に夕日のことを報告する。
最高でした、という私の言葉に、喜んでくれて何よりです、と彼女は満足そうにしていた。
個室ではないし、食事やサービスが充実したような宿泊施設でもない。
ただ、ホテルよりも格段に安く、その日の夜に泊まる寝床と、新たな出会いを提供してくれる場所がゲストハウスだ。
その初めての宿泊の体験が、そして初めての一人旅の宿が、ここで良かった。
心からそう思える、素敵な場所だった。
朝8時、長谷行きのバスに乗り、そこから鎌倉へ向かう。
昨日、お参りをしなかった鶴岡八幡宮へ向かい、これまでの旅の無事のお礼と、これからも気を付けて旅を続けます、という報告をする。
鶴岡八幡宮には源頼朝公が祀られている。
約800年前、ここが日本の中心であった。
日本で初めて、天皇を中心とした貴族社会から政治機能を奪い、武家中心の社会へと舵を切ったのが、源頼朝だ。
彼が政治機能の中心である「幕府」を置いたのが、ここ鎌倉である。
武士らしく、この町は自然の要塞と化している。
南は海に面しており、残りの三方は急な山に囲まれている。
山側の場所によっては今もなお残る、この要塞の数少ない出入口だった切通しは、硬い岩盤を細く切り崩したような道で、その左右は高い崖になっており、有事には上方から敵に攻撃が可能な作りになっている。
海側から上陸する場合も、奥へ行くにしたがって、つまり政治の中心である大倉御所へ近付くにしたがって、道が狭くなっており、攻める側はどれだけ大群で来ようとも、その数の利を生かせない作りになっている。
ここ鎌倉は、まさに難攻不落の町であっただろう。
経済・商業面においても、海が近いという地の利を生かして、海運に取り組んだ。
その港跡が材木座に残っている。
ここは、かつて日本の中心であったのだ。
そして、この街を開いたのが源頼朝なのである。
彼を祀る鶴岡八幡宮に手を合わせ、この場所を後にする。
この後、腰越、江の島と廻る。
幸運なことに今日の天気も良好で、全体に薄い雲がかかっているようだが、青空だった。
旅の終わりが近づいてくるのを実感し始める、その日の夕方、私は江の島にいた。
辺津宮、中津宮、奥津宮とお参りを済ませ、私は江の島の最奥である稚児が淵で、三浦半島の向こう側へ沈んでいこうとする夕日を眺めていた。
このまま、ずっと見ていたい気分だったが、私はこの場所から離れ、片瀬江ノ島駅からある場所へ出発した。
これは私にとっての、もう一つの冒険であった。
夜の6時ごろ、私は渋谷にいた。
今年の春より、大学生として新生活を始める私は、その前にどうしても会っておきたい人がいた。
高校生の頃、その人は私の憧れであり、浪人生の頃は、彼が受験生に向けて発し続けるメッセージが心の支えだった。
そして、その人の存在が、私が恋焦がれ続けた、ある大学を目指すきっかけであった。
多浪の末に不合格だった際に、唯一合格していた大学に入学するか否か、その人にも意見を求めていた。
時間の都合が合わず、直接の意見を受けることはできなかったが、志望校を諦め、その大学に入学することを報告するために、私は渋谷に来た。
道玄坂の喫茶室で数年ぶりに会う彼に、春からの進路を報告する。
彼は私にこう助言した。
「大学では、絶対に同じ熱意を持つ仲間を作れ。共に頑張れる仲間を作れ。」
その言葉通り、後に私は共に刺激しあえる仲間とともに大学生活を送ることとなる。
彼と別れ、外に出ると、パラパラと雨が降っていた。
都会の喧騒を歩きながら、今回の小さな旅を思い出す。
夜9時のスクランブル交差点、信号は青に変わった。
これから始まるんだ。そうして私は家へ帰る電車のホームへ向かった。
こちらに続きます。
よろしければサポートよろしくお願いします!