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【つの版】度量衡比較・貨幣117

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 17世紀、欧州諸国は引き続き戦乱に明け暮れていました。世界各地の入植者や商人・海賊も国際情勢に呼応して相争っています。この頃、東アジアと日本はどうなっていたのでしょうか。

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南蛮貿易

 ポルトガル人は1511年にマラッカを占領するとチャイナにも船団を派遣して通商を求め、1517年には珠江デルタ東部の屯門島(現香港の大嶼山)に居住地を作りますが、1522年に明朝によって駆逐され、広東から寧波にかけての各地で海賊(倭寇)と結託して密貿易(私市)を行うようになります。

 明朝は彼らを「仏朗機フランキ夷」と呼んで迫害しますが、ポルトガル商人は倭寇を介して日本とも交易を行い、その利益は莫大なものでした。やむなく明朝は嘉靖14年(1535年)にマカオ(漢名は澳門=湾の奥の門)に市舶司(海外交易を司る役所)を設置し、多額の関税を課しての取引を許可します。これにより年間2万両(銀1両≒現代日本の10万円相当として20億円)もの関税収入が得られましたが、密貿易すれば関税はかかりません。

 そこで明朝は大規模な倭寇掃討作戦を開始し、ポルトガル人にも協力させてこれを成し遂げます。そしてポルトガル人は16世紀中頃からマカオに居留地を築くことを黙認され、年間500両(5000万円)の地代や賄賂、関税をおさめることになりました。以後マカオは「南蛮貿易」の拠点として繁栄し、イエズス会士によるキリスト教伝道の拠点ともなりました。彼らがもたらした火縄銃や大砲、キリスト教などの文化は、東アジア世界を変動させます。

 この頃、日本では石見銀山が開発され、莫大な銀が産出されて海外との取引に持ち出されていました。一方でスペイン領ペルーやメキシコでも銀山開発が進み、太平洋を横断してマニラまで運ばれ、対外貿易に利用され始めます。ポルトガルとスペインは同じカトリックながら商売敵ですが、1580年に両国が同君連合となったため対立はやみ、両国の商船が世界を行き交うことになります。明朝や日本各地の戦国大名も南蛮貿易によって利益や兵器を獲得し、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ら天下人も南蛮貿易を重視しました。

 スペイン・ポルトガル連合を敵に回したオランダ・英国・フランスは、世界中に船団を派遣して敵国の商船や入植地を襲撃させ、莫大な財宝を掠奪する海賊行為に出ます。さらに現地住民の反乱を煽ったり、新たな入植地を築くなどして敵国の貿易ルートそのものを断ち切り、奪い取っていきました。16世紀末から17世紀にかけてオランダは東インド諸島からポルトガル人を駆逐し、英国やフランスもインドなどに拠点を築いていきます。日本ではオランダ人到来前に秀吉によるキリスト教(カトリック)迫害が行われました。

 秀吉の死後に天下人となった徳川家康は、スペイン・ポルトガルとの友好関係を保ちつつオランダや英国とも国交を結び、慶長18年(1613年)にはキリスト教に対する禁教令を出しています。オランダはスペイン、ポルトガルおよび英国を駆逐して、日本との交易をほぼ独占していくことになります。

南海攻防

 しかし、ポルトガルはこの頃にはまだ日本との交易を維持しています。日本は自国から銀などを輸出し、明国からは絹や生糸を輸入していましたが、海禁政策をとり日本と国交を回復していない明国と交易するには、明国と朝貢関係にある朝鮮や琉球を介する必要があります。朝鮮とは対馬、琉球とは薩摩を介して交易可能ですが、間に他国や大名を挟むため、幕府直轄地(天領)たる長崎に商館を持つことを許可されたポルトガル人なら、マカオで明国商人から商品を買い付け、幕府へ格安で商品を運べるのです。

 オランダの商館は平戸にありますが、日本と明国との交易はポルトガルが掌握していて入り込めません。そこでオランダはポルトガル船やマカオをしばしば襲撃し、マカオが(明国から借りているため)大砲などが少なく防衛が弱いことを知ると、1622年6月に大規模な攻撃をかけます。オランダ軍にはマレー人や日本人などの傭兵も加わり1300名、船は13隻に及びました。対するマカオにはスペイン・ポルトガルの兵士は150名(うち混血者90名)しかいませんでしたが、黒人奴隷や現地のチャイニーズらも加えて激しく抵抗し、要害の地に籠もって銃撃・砲撃を行い、上陸した敵軍に大打撃を与えて追い払います。これによりオランダ軍は300名以上が戦死し、船4隻が撃沈され、マカオ占領は諦めざるを得ませんでした。

 そこでオランダは東に向かい、前回記したように台湾の西に浮かぶ澎湖諸島を占領します。マカオと琉球・日本を結ぶ台湾海峡のシーレーンを抑え、南のマニラにも睨みをきかせることができます。明国は怒って退去勧告を行い、武力でこれを排除しますが、オランダ人は台湾本島の南部にゼーランディア城を建設することを黙認され、引き続き台湾海峡を脅かします。

 台湾は古くから明国商人と諸外国が密貿易を行うための中継地点でした。オランダ人は台湾に寄港する船に一律で10%の関税をかけましたが、日本側はこれに難色を示し、交渉を行いますが難航します。しまいにはオランダの台湾総督が人質になる騒ぎとなり、一時的に平戸のオランダ商館が閉鎖されるほどでした。時の江戸幕府将軍・徳川家光と幕閣はこれを憂慮します。

鎖国海禁

 寛永8年(1631年)、幕府は朱印船制度に制限を課し、旧来の朱印状に加えて幕府の老中奉書(将軍の命令書)がなければ国外との貿易を許可しない旨を通達します。朱印状は家康や秀忠が発布したため取り消せませんが、家光の追認が必要であるとしたのです。これによって許可された貿易船を「奉書船」と呼びます。次いで寛永10年(1633年)には奉書船以外の渡航を禁止し、海外に5年以上居留する日本人の帰国も禁止されます。

 寛永11年から13年(1634-36年)にかけてこの通達は繰り返され、さらに禁止事項が付け加えられます。長崎には人工の築島(出島)が銀4000両(4億円)を費やして建設され、ポルトガルの商人は当局の監視のため全てここに移されました。また貿易に関係ないポルトガル人とその妻子287名を、日本人との混血者を含めてマカオに追放します。さらに明国・オランダなど外国船の入港も長崎に限定し、朱印船・奉書船を問わず、日本人が海外へ渡航することも、海外の日本人が帰国することも禁止しました。家康の時代から30年続いた朱印船貿易は終わりを告げたのです。

 長崎を管轄する長崎奉行は1人から2人に増やされ、海外交易や不審船、密航者や密貿易の監視・摘発を行いました。一連の通達を歴史上は「鎖国令」といい、これ以後の日本の対外政策を「鎖国」と言います。世界中へほぼ自由に渡航可能な現代と比べれば実際窮屈ですが、あくまで制限しただけであり、完全に海外との関係を封鎖して孤立していたわけではありません。また当時の国際環境から見ても、明国や朝鮮を真似て対外貿易を制限し、国内からの出国を禁止する「海禁政策」は国内外の平和を鑑みれば有効でした。

島原之乱

 そして寛永14年(1637年)、長崎に近い肥前国島原半島と肥後国天草諸島において、大規模な反乱が勃発します。世に名高い「島原天草の乱」です。島原半島はキリシタン大名の有馬晴信が治めていた地で、慶長17年(1612年)に晴信が自害させられたのち息子の直純が跡を継ぎますが、彼も2年後に日向国延岡へ転封となり、元和2年(1616年)に松倉重政が入封します。

 彼は当初南蛮貿易の利益を得るためキリシタンの存在を黙認し、弾圧も緩やかにしていましたが、家光から叱責されて厳しく弾圧するようになり、拷問や処刑を行います。さらにはキリシタンの根拠地であるルソン島への遠征を計画しますが、寛永7年(1630年)に急死しました。彼は息子の勝家ともども領民を顧みず、実質4万石の領地を10万石と偽り、重税と労役を課して巨大な島原城を建設し、島原の乱の原因を作りました。天草はキリシタン大名・小西行長の領地で、関ヶ原の戦いの後に唐津藩主寺沢氏の飛び地領となりましたが、同様にキリシタン弾圧や領民搾取を行い恨みを買っています。

 苛酷な年貢の取り立てと労役に耐えかねた島原・天草の領民たちは、旧領主である有馬氏や小西氏に仕えた浪人たちと結託します。また肥後国熊本藩では寛永9年(1632年)に藩主の加藤忠広(清正の子)が改易され、多数の浪人が天草に流れ込んでいました。彼らは島原半島の南、天草諸島の湯島に集まって談合を行い、小西行長の祐筆(書記)であった益田甚兵衛好次が評定衆の筆頭となります。彼はキリシタンとしてペトロの洗礼名を持ち、妻マルタとの間に16歳の嫡男・四郎時貞(洗礼名ジェロニモ/フランシスコ)を儲けていましたが、戦意高揚のため彼がキリストめいた様々な奇跡を起こしたと喧伝し、総大将に担ぎ上げます。これぞ名高い天草四郎です。

 寛永14年10月、島原の一揆勢は有馬村の代官を殺して挙兵し、時を同じくして天草でも一揆勢が武装蜂起します。島原藩主・松倉勝家は仰天して兵を派遣しますが討ち破られ、島原城に立て籠もりました。一揆勢は城下町を焼き払って物資を掠奪しますが、天草の一揆勢は反撃を受けて島原へ移動しました。両軍は合流して3万7000もの大軍となり、松倉氏に破壊された有馬氏の居城・原城跡に籠城しました。

 反乱の報せを受けて家光と幕府は驚愕し、九州諸侯に一揆勢の討伐を命じます。また上使(総大将)として板倉重昌らを派遣しますが、彼は1.5万石の小藩主に過ぎず、九州の諸大名を従わせるには役者不足でした。原城は取り囲まれますが激しく抵抗し、年末になっても陥落しませんでした。家光は老中・松平信綱を追加派遣して戦後処理を任せますが、彼が到着したことを聞いた重昌は功を焦って総攻撃をかけ、返り討ちに遭って討ち死にします。やむなく信綱が彼に代わって総大将となりました。

 鎮圧軍は総勢12万に及び、原城はポルトガルの支援も国内キリシタンの武装蜂起も期待できぬ以上孤立無援となりますが、絶望的状況と狂信によって城内の結束は強く、降伏勧告にも応じませんでした。寛永15年(1638年)正月、オランダ商館長は長崎奉行の依頼を受けて大砲5門を提供し、また商船を派遣して原城に艦砲射撃を行わせましたが目立った効果はなく、幕府軍もオランダが自国の反乱鎮圧に関わるのを恐れてやめさせています。

 そうこうするうち幕府軍には備後福山藩から増援も到着し、兵粮も弾薬も尽きた原城は2月末に総攻撃を受けて陥落します。幕府軍にも被害は出たものの、天草四郎らは討ち取られ、一揆勢は禁制破りのキリシタンかつ賊徒として皆殺しとなりました。松倉勝家は乱の責任を問われて斬首となり、寺沢氏は天草領を没収されます。そして島原の乱はキリシタンの恐ろしさを改めて幕府に意識させ、鎖国政策を加速させることとなりました。

 寛永16年(1639年)、幕府はポルトガル船の入港を全面的に禁止します。翌年に通商再開を求めてマカオからポルトガル船が来航しますが、幕府は使者61名を処刑しています。ポルトガル商人が追放されて空白になった出島には、寛永18年(1641年)に平戸からオランダ商館が移されました。これによりオランダは幕末の開国・開港まで200年以上に渡り、欧州諸国のうち唯一日本との公的な貿易・外交関係を継続することになったのです。

◆魔界◆

◆転生◆

【続く】

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