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【つの版】度量衡比較・貨幣92

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 家康はオランダや英国と通商条約を結び、平戸に両国の東インド会社の商館を設立させます。1613年には仙台藩を介して、スペイン使節ビスカイノを帰国させるついでに180名余の使節団を派遣しています。

◆沈◆

◆黙◆

慶長禁教

 慶長18年9月(1613年10月)、月ノ浦(現宮城県石巻市)を出航した船は黒潮に乗って太平洋を横断し、3ヶ月かけて1614年1月にヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)のアカプルコに入港しました。マニラ・ガレオンは半世紀もの間この航路を往復しており、出発地点がやや北に寄っただけです。

 一行はメキシコシティ、ベラクルス、ハバナを経て大西洋を横断し、10月にはスペインに到達、1615年1月にマドリードでスペイン国王フェリペ3世と謁見します。副使の支倉常長はこの地でキリスト教の洗礼を受け、同年10月にはローマに入り、ローマ教皇パウロ5世と謁見しました。彼らは大歓迎を受けましたが、この頃日本では異変が起きていました。

 慶長14年(1609年)2月、有馬晴信の朱印船がポルトガル領マカオに寄港した折、配下の水夫がポルトガルの船員と取引を巡って諍いを起こし、マカオ総司令アンドレ・ペソアが鎮圧して、晴信側の水夫60名ほどが死亡する事件が起きました。翌年ペソアは長崎を訪れ、長崎奉行の長谷川藤広にこの事件の調書を提出し、駿府に赴いて家康に状況を説明すると申し出ます。

 しかし藤広は事件の真相を伏せたまま代理人を駿府に派遣し、晴信に報復を唆してペソアと商船の捕縛を家康に請願させます。家康はこれを許可し、ペソアは長崎で晴信に攻撃され、船とともに自爆しました。このためポルトガルは日本と交易できなくなり、1611年に薩摩藩を介して貿易再開と賠償等を求めますが、幕府側は賠償せず、貿易再開のみを許可しました。さらに晴信への恩賞を巡って疑獄事件が発生し、犯人の岡本大八は「晴信が藤広を暗殺しようとしている」と密告したため、大八・晴信ともども処刑されます。

 藤広には一切お咎めがなく、幕府は有馬氏を改易してその領土を天領(直轄地)とします。また晴信も大八もキリシタンだったことから、慶長17年(1612年)にはキリスト教の禁教令を発布し、天領および大名領において布教を禁じること、教会を破壊することを命じました。これは江戸幕府による最初の公的な禁教令です。大名や家臣たちもキリスト教の信仰を禁止され、背く者は改易・処刑とされたため、キリシタン大名は消滅しました。

 慶長遣欧使節団が出航した直後の慶長18年(1613年)12月、家康と秀忠は臨済宗の高僧・金地院崇伝に命じて「伴天連追放之文」を作成させ、キリスト教は神道・儒教・仏教の敵であるから禁止すると布告しました。翌年には高山右近ら主だったキリスト教徒がマカオやマニラに追放されています。しかし南蛮貿易の利益は捨てきれず、布教しなければ貿易は許可しました。

大坂之陣

 慶長19年11月(1614年12月)、豊臣家と徳川幕府の戦いである大坂冬の陣が勃発します。関ヶ原の戦いの後、秀吉の子・秀頼は摂津・河内・和泉を領する65万石の大名とされ、徳川秀忠の娘・千姫を娶っていましたが、右大臣の位を家康から譲られたものの関白にも将軍にもなれず、前天下人の子として微妙な状態に置かれていました。やがて豊臣家は幕府に無断で朝廷から官位を賜り、兵糧や浪人を大坂城に集めるなど不穏な動きを見せます。

 関ヶ原で西軍に属した大名たちは改易や取り潰しの憂き目に遭い、人件費削減のため多数の家臣が解雇されて浪人となっていました。豊臣家は彼らを大坂城に呼び寄せたのです。幕府に迫害されたキリスト教徒らも続々と集まり、総勢10万人にも達しますが、豊臣家恩顧の諸大名のうち誰も大坂城に駆けつける者はいませんでした。幕府はこれに対してオランダや英国に大砲・焔硝・砲弾用の鉛などを発注し、多数の攻城兵器を準備します。

 10月に駿府を出た家康は京都・二条城に入り、秀忠は6万の軍勢を率いて江戸を出発、11月に大坂で父と合流します。諸国の大名も続々と兵を率いて集まり、徳川軍の兵力は20万に及びました。大坂城は完全に包囲され、浪人衆の真田信繁(幸村)が真田丸から撃って出て徳川軍を脅かしたものの、劣勢は覆せません。家康は大坂城への調略工作を行いつつ大砲射撃を開始し、硬軟両面で攻めたてます。ついに12月には和議が成立し、秀頼の一命と領土は不問とされたものの、大坂城の堀を埋め立て、本丸以外を破却することなどが取り決められました。

 しかし残った浪人衆は不穏な動きを止めず、翌1615年5月には大坂夏の陣が勃発します。裸同然の大坂城に防御力はなく、打って出た浪人衆の奮戦で徳川軍にもかなりの被害が出たものの、これが撃破されると徳川軍の勝利は決定的となります。大坂城は城内からの寝返りによって放火されて落城し、秀頼らは自害して、ここに豊臣家は滅びました。7月には元和と改元され、禁中並公家諸法度、武家諸法度、一国一城令などが幕府により次々と制定されます。応仁の乱以来の戦国の世は名実ともに終わったのです。

 戦後処理を終えた家康は駿府に戻りますが、元和2年(1616年)1月に病で倒れ、3月に朝廷より太政大臣に任じられたのち、4月17日に満73歳で世を去りました。すでに将軍の位は息子・秀忠に譲って久しく、徳川幕府はこれより250年に渡って存続することとなります。

元和禁教

 家康薨去の同年、徳川秀忠は欧州諸国との貿易港を長崎と平戸の二港に制限します。また「下々百姓に至るまで」キリスト教の信仰を厳格に禁止し、長崎奉行らにキリスト教徒の捜索と逮捕を命じました。これは英国商館長のリチャード・コックスの発言を警戒したためといいます。

 コックスは1613年に平戸英国商館の初代館長として赴任しますが、オランダ人は英国人と称して海賊行為を行い、英国に対する悪評を立てて日本から追い出そうとしていました。そこでコックスは「オランダはスペイン王国の一部であったが、英国のおかげで独立したので、いわば英国の属国である。オランダ総督は勝手に国王を僭称して幕府を騙しているが、英国には古くから国王がおり、オランダより遥かに正統で偉大である」と吹聴します。

 薩摩藩は彼の言葉を真に受けて英国と貿易関係を結ぼうとしますが、オランダ人やスペイン人はこれに反対し、「オランダがスペインから独立するのを援助したのは英国であるから、彼らはいずれ日本にも同じことをするであろう」と幕府に告げました。薩摩と英国が手を結んで幕府に反旗を翻されては困りますから(遥か後にそうなりましたが)、幕府は先んじてこれを制したわけです。1617年には堺において外国人が鉄砲等の武器を購入することが禁止され、翌年には英国とオランダからの輸入鉛の購入先が幕府に限定されるなど、海外貿易は年々制限を受けることになりました。また1619年に秀忠が上洛した際には、京都で52名のキリスト教徒が処刑されています。元和6年(1620年)、55歳のウィリアム・アダムスは平戸で没しました。

 同年、堺の商人・平山常陳の朱印船がマニラから長崎へ向かう途中、英国とオランダの船に拿捕され、積荷が没収される事件が起きます。常陳らは不当な海賊行為だと陳情しますが、英国とオランダは「入国を禁じられているスペインの宣教師を乗船させていたため正当である」と主張し、2年に及ぶ裁判の末に常陳らの敗訴となります。元和8年(1622年)7月、常陳は二人の宣教師とともに長崎で火刑に処され、船員12名は斬首されました。翌月には長崎でキリスト教徒55名が処刑され(25名は火刑、30名は斬首)、幕府はキリスト教徒への弾圧をさらに強化していきます。

 慶長遣欧使節団はスペインやローマで歓迎されたものの、日本がこのような状況ではキリスト教の布教どころではなく、貿易交渉も挫折しました。ソテロと支倉常長は1618年にマニラへ戻り、常長は1620年に帰国できたもののカトリックに改宗していたため睨まれ、1622年に病没します。ソテロはその2ヶ月後にマニラから密入国しようとしますが捕えられ、1624年8月に火刑に遭って殉教しました。

 1623年3月には、モルッカ諸島南方のアンボイナでオランダ人に英国商館が襲撃され、日本人の傭兵を含む商館員が殺戮される事件が起きています。1619年にオランダ東インド会社はバンテン王国からジャワ島中部の港町ジャヤカルタ(現ジャカルタ)を租借し、オランダの古称を冠して「バタヴィア」と名付け、拠点を遷していました。バンテン王国は英国と手を結んでオランダに対抗しますが勝てず、オランダは最終的に英国とポルトガルをこの地域から駆逐して、香料貿易を独占するに至りました。同年、英国東インド会社は平戸からも撤退しています。

 1623年に徳川秀忠が薨去し、子の家光が将軍に即位すると、スペインとの国交は断絶します。日本と貿易関係のある欧州の国はオランダとポルトガルだけとなりますが、まだ日本は「鎖国」したわけではなく、朱印船貿易も続いています。関ヶ原や大坂の陣で浪人となった人々や追放されたキリスト教徒らは海外で商人や傭兵として活躍し、各地に日本人町を築いています。

◆長◆

◆崎◆

【続く】

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