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【つの版】度量衡比較・貨幣91

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1609年、家康はオランダと正式に国交を樹立し、平戸にオランダ東インド会社の商館を設置することを許可しました。日本とオランダの貿易関係は江戸時代を通じて続きましたが、なぜそのようなことになったのでしょうか。

◆蘭◆

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東印会社

 世界帝国スペイン(スペイン・ポルトガル連合帝国、イベリア連合)を敵に回した英国とオランダは、フランスやオスマン帝国(トルコ)、モスクワ(ロシア)などと手を組んで対スペイン同盟を形成し、各地のスペイン領やスペイン船を襲撃しました。特に16世紀末にはポルトガルが先に進出して香辛料貿易を独占していた東南アジア(東インド)への遠征がブームとなり、成功者は莫大な戦利品と香辛料を本国へ直接持ち帰るようになります。

 遠征など大事業の資金は個人でポンと出せるものではなく、複数人が資金を出し合い、出資額に応じて利益を分配する会社(カンパニー/company、語源は「ともにパンを食べる者」、仲間・組合)を設立します。かつては事業ごとに出資者を募り、事業が終わると清算・解散していましたが、継続的に事業を行うには会社も継続的に経営していく必要があり、この頃からそうなっていきます。特に出資金を出資者ごとに分けず、一つに結合させて資本とする会社をジョイント・ストック・カンパニー(合本会社)といいます。

 しかし英国にはすでにモスクワ会社やレヴァント会社といった東方貿易のための勅許会社(国王公認の会社)があり、ロシアやトルコ経由で香辛料や香料、東方の産品を輸入していました。産地直送でそれが持ち帰れるとなると独占体制が崩れて商売上がったりです。とはいえ東インドまで往復する大航海はリスクも高く、やはり専門家やしっかりした資本が必要です。

 そこで東方貿易のノウハウを持つレヴァント会社が中核となり、新たな勅許会社「東インド会社(East India Company,EIC)」が1600年末に創設されます。女王エリザベス1世はこの会社にアジア貿易に関する独占を許可し、民間の貿易会社も併合・統合されていきます。最初の航海は1601年2月-1603年9月に行われ、215人の出資者から6万8373ポンド(1ポンドを現代日本円の10万円として68億3730万円)を集め、4隻の船団が派遣されました。

 ジェームズ・ランカスターを指揮官とするこの船団は、喜望峰・マダガスカル島・ニコバル諸島を経由してスマトラ島北端のアチェに到達しました。彼らは香辛料などを購入し、マラッカ海峡を通行するポルトガルの商船を襲撃して積荷を奪い、1602年にはジャワ島西部の港町バンテンに商館と船の工場を設立しました。帰国したランカスターは新国王ジェームズからナイトの爵位を授与され、以後も東インド会社最高取締役として活躍します。

 これに対抗するため、オランダは1602年3月20日に複数の商社を統合して「連合東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie,VOC)」を設立します。アムステルダムほかオランダ各地に6つの支社(kamer)が置かれ、1603年にはバンテンに商館を設立しました。またモルッカ諸島などに船団を派遣してポルトガル人と戦い、その商船を襲撃し、現地住民を脅してオランダとの香辛料貿易に関する独占契約を結ばせています。

 英国の冒険商人ヘンリー・ミドルトンは先のランカスターの航海に同行した人物でしたが、1604年に同じ船団を率いて再び東インドへと出発します。彼らは同年末にスマトラ島に到達し、翌年には英国船としては初めてモルッカ諸島に到達します。しかしオランダ人は彼らの活動を妨害したため、長年対スペイン・ポルトガル同盟を結んでいた英国とオランダは、商売敵として対立するようになります。結局東インドではオランダが優勢となり、スラウェシ島・アンボン島・パタニなどに拠点を置きました。

日蘭通商

 1605年、徳川家康は平戸藩主の松浦鎮信に命じて朱印船を建造させ、リーフデ号の船長であったヤコブ・クワッケルナックらにオランダ国王(総督)マウリッツへの親書を持たせ、パタニへ派遣しました。しかしパタニのオランダ商館はポルトガルとの紛争で休業状態にあり、クワッケルナックらは日本へ戻る途中でポルトガル人に殺されてしまいます。

 オランダ本国ではスペインとの戦争が続いていましたが、両国とも深刻な財政難に陥り、1608年より「現状維持」を前提とした休戦・和平交渉が行われます。1609年には12年間の休戦協定が成立しますが、オランダは交渉成立前に「現状」を拡大しておくため、海外における領土や交易路の拡大を指示します。1607年、オランダ東インド会社はピーテル・ウィレムスゾーン・フルフーフを東インドへ派遣し、アジアにおける覇権確立を命じました。

 1609年、フルフーフはバンテンから日本へ使節ヤックス・スペックスらを派遣し、通商条約の締結を求めました。同年7月に平戸に到着したオランダ人は、総督マウリッツの親書を携えて駿府の徳川家康のもとに赴き、家康はこれを許可して朱印状を授けます。この時の通訳はリーフデ号の船員であったオランダ商人サントフォールトでした。家康は江戸に近い浦賀での交易を希望しましたが、協議の末に平戸にオランダ商館が設立されることとなり、スペックスは初代の商館長(カピタン)に任命されます。

 平戸が選ばれたのは、すでにスペイン・ポルトガルが長崎を交易地としており、情報収集に便利であったことによります。長崎は1605年には家康が天領(幕府直轄地)とし、朱印船交易の拠点としていました。ポルトガル人やスペイン人は嫌がりますが、天下人たる家康に逆らうわけにも行きません。英国人ウィリアム・アダムスは家康から「三浦按針」の名を授かり、250石取りの旗本に取り立てられ、船大工として帆船を建設していましたが、英国船はまだ日本に来ておらず、オランダに先を越された形となります。

 1611年、英国は遅れを取り戻すべく日本へ通商条約を求める使節船団3隻を派遣します。旗艦クローブ号には司令官のジョン・セーリスが乗船し、マダガスカル、イエメン、バンテン、モルッカ諸島などを経由して、1613年6月に平戸に到着しました。セーリスは望遠鏡・毛織物など総額150ポンド(1500万円)の贈り物と、国王ジェームズの親書を携えて家康に謁見し、アダムスは通訳として交渉に関わりました。喜んだ家康は英国にも平戸に商館を設立することを許可し、朱印状を授けました。一行は江戸の秀忠にも謁見し、数々の贈り物を賜ったのち平戸に戻り、1613年末に日本を出航して、翌年英国に戻りました。アダムスはセーリスらと一緒に帰国する許可を授かっていましたが、彼と馬が合わず帰国を拒んだといいます。

西使往来

 こうして日本はオランダ、英国と通商条約を結んだわけですが、ポルトガルやスペインとの貿易をやめたわけではありません。1609年、嵐に遭遇して上総国夷隅郡(千葉県)に漂着したスペイン船には前フィリピン総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロが乗っていましたが、家康・秀忠らは大いに歓迎して慰め、メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)への渡航のためにウィリアム・アダムスが建造した西洋式帆船「按針丸」を与えています。さらに京都の商人・田中勝介ら23人の日本人をドン・ロドリゴに随行させました。彼らは日本人としては初めて太平洋を横断し、アメリカ大陸に到達したのです。

 ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコは事情を聞いて喜び、探検家のセバスティアン・ビスカイノを返礼の使者として派遣しました。彼は1611年3月にアカプルコを出航し、同年6月に浦賀に入港すると、江戸で秀忠に、駿府で家康に謁見します。しかし日本側が通商条約の締結を求めたのに対して、スペイン側は「カトリックの宣教師を庇護して布教を許可し、プロテスタント勢力であるオランダや英国の人物を追放するように」と告げ、さらに日本沿岸の測量調査を求めました。スペインからすれば当然の要求ではありますが、このことは日本側の態度を硬化させます。

 家康はオランダ人や英国人の追放は断りますが、測量調査の許可は出し、ビスカイノは仙台から九州沿岸に至る地域の測量を行ったのち、1612年に返書を持って帰国の途につきます。しかし太平洋上で嵐に遭遇し、浦賀港へ引き返します。船が大破したため彼は帰国できなくなり、日本側へ再びの船の提供か、建造費の用立てを申し入れます。幕府はスペインによる侵略を警戒してかこれに難色を示しますが、使節が帰国するのに船を出さなければスペインを完全に敵に回します。世界帝国スペインの国力はオランダや英国になお勝っており、金銀の産地も持つことから敵に回したくはありません。

 この時、仙台藩主の伊達政宗がビスカイノに船を提供すると申し出ます。彼は幕府からも許可と協力を取り付け、スペイン人の技術も借り、45日かけて1隻のガレオン船を建造しました。そして東北地方で布教していたフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロが正使、仙台藩士の支倉常長が副使となり、総勢180名余の使節団が結成されます。これがいわゆる慶長遣欧使節です。

◆MEXICO◆

◆MEXICO◆

【続く】

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