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【つの版】度量衡比較・貨幣86

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 英国は新興国オランダ、大国フランスと手を結び、世界帝国スペインと渡り合います。英国とオランダはスペインによる貿易独占を打破するため海路でアジアへ進出し、東インド会社を設立することになります。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Descriptio_Hydrographica_accomodata_ad_Batavorum_navigatione_in_Javam_insulam_Indiae_orientalis_saetam_ad_quam_postridie_calendas_Arpilis_ann%271595_ex_Hollandia_solverunt_et_ex_qua_domum_redierunt_Idus_Augusti_anno..._-_btv1b8492847b.jpg

◆東◆

◆印◆

東洋遠征

 英国とオランダはスペイン・ポルトガル連合王国(イベリア連合)を敵に回したことで、その貿易圏から締め出されました。となると新大陸の金銀、アフリカの奴隷や黄金、アジア(東インド)の香辛料や絹、陶磁器などが輸入できなくなります。そこで英国やオランダは交易ルート上で待ち伏せして海賊行為を働き、イベリア連合の商船を奪って戦利品とする一方、各地の植民地や港湾を襲撃して掠奪したり、離反を唆したりするようになります。

 1591年4月、英国の冒険商人ジェームズ・ランカスターは女王エリザベスの勅許を得、3隻の私掠船を率いてポルトガル領東インド諸島(現マレーシアやインドネシア)への航海に出発します。彼はアフリカ南部の喜望峰を経由し、9月に船1隻を失いますが1592年2月にはザンジバルに達し、5月にインド南端のコモリン岬に至り、6月にはマレー半島のペナンに到達しました。彼はスペインやポルトガルの商品を鹵獲して積荷を奪い、9月にペナンを出てセイロン島に渡り、1594年5月に少数の生き残りを率いて帰国しました。また彼はブラジルへも遠征してポルトガルの商船や港町を掠奪し、かなりの成果をあげています。

 ランカスターが遠征中の1592年8月、ウォルター・ローリーとカンバーランド伯爵率いる英国艦隊がアゾレス諸島沖でポルトガル艦隊と衝突し、巨大な商船「マードレ・デ・デウス(神の母)」号を鹵獲しました。その積荷は世界中から運ばれたあらゆる金銀財宝や香辛料で、おおよそ50万ポンド(500億円)もの価値があったといいます。また東インドやチャイナ、日本に関する情報を記した機密文書も英国の手に渡りました。この莫大なカネを元手として、さらなる遠征が計画されることとなります。

 こうした成功を受けて、オランダも東インドへの遠征を計画します。オランダの商人たちは東方に関する様々な情報を集め、1594年にアムステルダムにおいて9人の商人が東インド遠征を目的とした「長距離会社(Compagnie van Verre)」を結成しました。調達された資金は29万ギルダーに及びます。当時のオランダのギルダーはグルデン≒ターレル≒ドゥカート≒クラウン=1/4ポンドに相当するとして現代日本円で2.5万円、29万ギルダーは72.5億円に相当します。これはのちのオランダ東インド会社のもととなりました。

 オランダ出身の商人リンスホーテンは、1579年にスペインのセビリアへ赴き、翌年からはリスボンで商売に従事していましたが、1583年からはゴア大司教の秘書としてインドへ渡り、アフリカやアジアに関する詳細な情報を得ていました。彼は1592年にリスボンを経てオランダへ帰国し、これらの情報をもたらしています。また彼はシベリアの北岸を経てチャイナへ向かおうとしましたが、これは成功しませんでした。なお英国にもラルフ・フィッチという冒険商人がおり、1591年4月に8年ぶりに帰国して、シリア、イラク、ペルシア、インド、東南アジアに関する情報を持ち帰っています。

 翌1595年4月にはコルネリス・デ・ハウトマン率いる4隻・248人の船団が出航します。この遠征は準備不足による壊血病や内輪もめなどの困難に見舞われつつ、喜望峰を回ってマダガスカルからインド洋を横断し、1596年6月にジャワ島西部のバンテン(バンタム)王国に到達しました。

 バンテンはマラッカ海峡の南方、ジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡を抑えるイスラム系の国です。1511年にポルトガルがマラッカ王国を征服したのち、代替ルートを求めたイスラム勢力によって建国されました。当然ポルトガルとは経済的にも宗教的にも対立しており、オランダとは敵の敵は味方であるとして友好的な条約を結びました。ところがハウトマンは傲慢に振る舞い、スルタンや住民の機嫌を損ねてしまいます。ポルトガル人が彼らを妨害するため流言蜚語を流し、歓迎しないよう仕向けたのかも知れません。

 このためオランダ人は水や食糧を補給できず、上陸した乗組員は捕虜にされて身代金を要求される始末でした。怒ったオランダ人は街に艦砲射撃を行い、商船を拿捕して積荷を奪いますが、激怒した現地住民に反撃され危機に陥ります。病気や嵐や武力衝突によって、248人もいた乗組員は半分以下になり、オランダ船は這々の体でジャワ島から東へ向かい、バンテン王国と対立していたバリ島のゲルゲル王国に到達します。オランダ船はこの地で香辛料を買い付けますが、東のモルッカ諸島はポルトガル領なので手が出せず、インド洋を横断してアフリカへ戻ります。1597年8月、ハウトマン率いるオランダ船団はようやくオランダに帰国し、香辛料を持ち帰りました。

蘭船再来

 オランダや英国では東インド遠征ブームが起き、多数のベンチャー企業が設立され、オランダ遠距離会社はこれらの企業と協力して80万ギルダー(20万ポンド=200億円)もの資金を集めます。1598年5月にはジェイコブ・ファン・ネック率いる8隻の船が東インドへ派遣され、喜望峰沖で嵐に見舞われつつマダガスカルからインド洋を横断し、11月末にバンテンへ到達します。

 この時、嵐ではぐれた船4隻を率いたワーウィック提督はマダガスカル東沖の無人島に到達し、オランダ総督マウリッツにちなんで「モーリシャス(Mauritius)島」と名付けました。1507年にはポルトガル人が発見していましたが無人のままだったため、勝手に領有権を主張したのです。ワーウィックは港を整備したのち10月にこの島を出発し、年末にはバンテンに到達してファン・ネックらと無事に合流しています。

 なおモーリシャス諸島には、ポルトガル語でドードー(Dodo,のろま)と呼ばれる飛べない鳥が棲息していました。ポルトガル人やオランダ人は彼らをたやすく捕獲して食糧としたため、1681年には絶滅してしまいました。

 今回はバンテンで問題が起きることはなく、1599年にオランダ船は東の香料諸島(モルッカ諸島)を訪れて大量の香辛料を買い入れます。敵対的な先住民との遭遇はあったものの、敵の敵に味方したりして難を逃れ、バンダ諸島に22人のオランダ人を残して拠点を確保させました。ポルトガルの勢力は現地住民の反抗によってこの地域では弱体化しており、オランダ人は新しい拠点を香料諸島に築くことに成功したのです。

 ファン・ネックは1隻の船に香辛料を満載して先にオランダへ戻り、1599年7月にアムステルダムへ帰還しました。その積荷の価値は100万ポンド=400万ギルダー(1000億円)にも達し、オランダ人を狂喜させます。1600年には残りの船団も次々と帰還し、出資者は出資金の4倍の利益を受け取ったといいます。一攫千金を求めてオランダや英国では多数の船がアジアを目指し、いくつかは海の藻屑となりましたが莫大な富や情報をもたらします。

 ファン・ネック出航の1ヶ月後、1598年6月末には、オランダの港町ロッテルダムから5隻・110人の船団が大西洋に出航します。これは南米のマゼラン海峡を通過して太平洋に出、西廻り航路で東インドを目指そうとしたものでしたが、ポルトガルやスペインの船団や嵐に遭遇して離散し、1600年4月末に1隻だけが日本に漂着します。これがリーフデ(愛)号で、日本に初めて到達したオランダ船でした。日本とオランダの関係はこれより始まります。またこの船には英国人ウィリアム・アダムスも乗っており、彼は日本に初めて到達した英国人として、数奇な人生をたどることになります。

◆愛◆

◆愛◆

【続く】

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