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【つの版】度量衡比較・貨幣116

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 17世紀、欧州諸国は引き続き戦乱に明け暮れていました。世界各地の入植者や商人・海賊も国際情勢に呼応して相争っています。北米とカリブ海は前回見ましたから、次は南米・アフリカ・インド洋・東アジア方面です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:16th_century_Portuguese_Spanish_trade_routes.png

◆Rivers of◆

◆Babylon◆


奴隷貿易

 南アメリカ大陸は、1494年のトルデシリャス条約により、現ブラジル東部を除く大部分がスペイン領とされていました。1580年にポルトガルがスペインに併合(同君連合として)されると境も意味を失い、フランス・英国・オランダはカリブ海のみならず南アメリカにも次々と侵略を行います。

 狙われたのは南米大陸北東部、スペイン領とポルトガル領の間にまたがるギアナ地方(現ガイアナ、スリナム、フランス領ギアナとその周辺)です。ギアナとは現地語で「水の地」を意味し、年間を通して吹く北東からの貿易風が内陸のギアナ高地にぶつかり、大量の降水をもたらしています。15世紀末にコロンブスがこの地に到来し、16世紀にはスペインによる探索が進められますが、辺境ゆえに手が及ばず、16世紀末から英国・フランス・オランダによる沿岸部への入植が行われました。

 ギアナ地方は湿潤な熱帯雨林のため、砂糖・タバコ・コーヒーやカカオ、綿花等の大規模農場が作られ、労働力としてアフリカから大量の黒人奴隷が輸入されました。この大西洋奴隷貿易は、早くからポルトガルやスペインが行っています。欧州からアフリカへは銃器・火薬・綿織物・ラム酒などが船で運ばれ、アフリカの諸王国や諸部族は捕虜などを奴隷として欧州からの商品を買うため売り飛ばし、この奴隷が南北アメリカ大陸へ運ばれたのです。アメリカ大陸からは欧州へ第一次産品が輸出され、欧州で加工されてアフリカへ、というサイクルが整い、三者はWIN-WIN関係で結ばれました。

 奴隷貿易自体は古代から世界中に存在しましたが、これほどの大規模な奴隷貿易はあまりなく、扱いも極めて苛酷で非人道的でした。奴隷たちは商品として船にすし詰めにされ、輸送途中で平均13%が死亡したといいます。19世紀に廃止されるまで3世紀に及ぶ大西洋奴隷貿易では1200万人ともいう奴隷が運ばれましたが、彼らはしばしば現地で反乱や逃亡し、同じく迫害されていた先住民と結託してヨーロッパ人を襲撃してもいます。

 1681年、英国の商社員の報告によると、西アフリカで奴隷1人を購入する時の値段は宝貝1万個でした。労働者の日当が宝貝120個ですから、これを現代日本の1.2万円とすれば宝貝1個が100円、1万個で100万円です。これは長布1枚、火縄銃6.5丁、棒鉄12本、真鍮の鍋40個に相当するとされ、計算すると火縄銃1丁が約15万円、棒鉄1本は8.3万円、真鍮の鍋1個が2.5万円です。女奴隷はもう少し高く、18世紀には奴隷の乱獲で値上がりしていきます。

 オランダはさらに南のポルトガル領ブラジルへ侵攻し、一時はオランダ領ブラジルを建設します。しかし内紛や反乱、ポルトガルの反撃で撤退し、1661年のハーグ条約でポルトガルと講和しました。ポルトガルは16年分割で400万クルザード(1クルザード≒2.5万円として1000億円)の賠償金を支払う代わりに、オランダからブラジルとアンゴラの領有権を認められます。

 西アフリカ・ギニア地方の南には、14世紀末からコンゴ王国が存在していました。ポルトガルとの貿易で富み栄えたこの国は奴隷貿易の中心地でしたが、奴隷獲得に力を入れすぎて反乱が起き、それをポルトガル軍に鎮圧してもらったため属国化しています。国王はポルトガルとオランダの対立を好機として独立を図ったものの、ポルトガル軍に制圧されています。

 1667年、ブレダの条約によりオランダは北米東岸のニューネーデルラントを英国に割譲し、代わりにギアナ地方西部(現スリナムとガイアナ)の領有を認められます。これがオランダ領ギアナで、19世紀に西部が英国に割譲されて英領ギアナ(現ガイアナ)となり、20世紀中頃に独立しました。フランス領ギアナだけは現代もフランスの海外県として存続しています。

南洋征服

 1652年、オランダはアフリカ大陸南端に近い喜望峰に補給港となる入植地を建設し、ケープタウンと名付けました。オランダ西インド会社と東インド会社の管轄地域はここを境とします。のちフランスでユグノーが迫害されると、彼らはオランダを介してこの地に多数入植し、ブール/ボーア(農民)人の祖となりました。この「ケープ植民地」が集団移住によって内陸へ拡大していくのは18世紀以後のことです。

 アフリカ大陸の南東部沿岸には、スワヒリ文化圏が広がっています。この地域にあった諸王国は16世紀にポルトガルに征服されましたが、現地住民はオスマン帝国やイランなどと結託して反乱を起こしており、ポルトガルの支配は揺らいでいました。オランダ・英国・フランスはここには直接進出せず(フランスはマダガスカル等に多少入植しましたが)、インド洋を横断して南インドやセイロン(スリランカ)、スマトラ島へ向かっています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:European_settlements_in_India_1501-1739.png

 16世紀にはポルトガルの独壇場であったインド洋交易は、17世紀になるとオランダや英国、フランスによって食い荒らされて行きます。1658年にはオランダがポルトガルをセイロンから駆逐し、内陸のキャンディ王国を属国化しました。インド本土では北西部のグジャラート地方、南西部のマラバール海岸、南東部のコロマンデル海岸、東部のベンガルなどに各国の拠点が築かれています。英国は1661年にポルトガル王家と婚姻し、持参金としてボンベイ(ムンバイ)を受け取ったため、その後も長くインドと関わり続けます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Territorial_Evolution_of_the_Dutch_East_Indies.png

 東インド諸島では、オランダ東インド会社がポルトガルや英国の勢力を駆逐し、ジャワ島のバタヴィア(現ジャカルタ)を首都として支配権を及ぼしていました。ただし実際に統治していたのはバタヴィア周辺と香料諸島の一部に過ぎず、周辺の諸王国は温存されています。16世紀末にはジャワ島中部にマタラム王国が勃興してバタヴィアやバンテン王国を脅かしました。しかしオランダは1677年に内紛に乗じてマタラム王国を服属させています。

 オランダはさらに北上し、1641年にはジョホール王国などと協力して、ポルトガル領マラッカを征服しています。これでインド洋と南シナ海を結ぶ海峡は2つともオランダ領になりましたが、すでにマラッカ海峡の重要性は低下していました。その北のインドシナ半島ではアユタヤ王朝カンボジアが諸国との貿易で繁栄しており、オランダも盛んに貿易を行っていましたが、現地勢力や外国商人との対立により1644年にカンボジアから、1664年にアユタヤから追放されてしまいます。東のフィリピンはスペイン領ですし、チャイナとの貿易もポルトガルが掌握していてうまくいかず、東アジアにおける貿易拠点であった台湾も1662年に失われ、残るは日本のみとなります。

 台湾島は古くからチャイナに存在を知られていましたが、16世紀中頃ポルトガル人が「発見」して「フォルモサ(美しい)島」と名付け、欧州にも知られるようになりました。ポルトガル人はこの地に入植しませんでしたが、オランダは1622-24年に台湾の西の澎湖諸島で明朝と戦争を行い、台湾の領有権を認めさせました。オランダ人は現在の台南市安平区にゼーランディア城を建設して拠点とし、40年近く台湾南部を支配しましたが、1662年に明朝再興を目指す鄭成功によって追い出されてしまいました。鄭成功は同年に逝去しましたが、その子孫は20年ほど台湾を統治することになります。

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【続く】

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