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【つの版】度量衡比較・貨幣64

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1526年8月末、オスマン帝国軍はハンガリー軍をモハーチの戦いで破り、国王ラヨシュを戦死させました。カールは弟でオーストリア大公のフェルディナントにラヨシュの跡を継がせ、オスマン帝国を防がせます。しかし相次ぐ戦争でハプスブルク家の財政は火の車となっており、新大陸からの金銀では追いつきません。そこでカールはアフリカ・インド交易で莫大な富を得ていたポルトガルと同盟し、財政支援を受けることとなりました。

◆分割◆

◆両断◆

地球両分

 1521年にポルトガル王マヌエル1世が崩御すると、ジョアン3世が19歳で跡を継ぎます。彼の母マリアはアラゴン王フェルナンドとカスティーリャ女王イサベルの娘で、カルロス(カール5世)の母フアナの妹にあたります。

 1518年にはカルロスの姉レオノールがマヌエルに嫁いでいます。マヌエルが崩御したため彼女は実家スペインに帰りますが、カルロスは1525年に妹カタリナをジョアンに嫁がせ、翌1526年3月にはジョアンの妹イサベルを自ら娶っています。この二重結婚によって両国の結びつきは強まりました。

 この頃、スペインとポルトガルは「香料諸島」を巡って争っていました。1494年のトルデシリャス条約では大西洋における両国の領有・交易権の境が定められましたが、地球の反対側についてはまだ何も取り決めがなかったのです。マゼランはフィリピン諸島(まだこの名はついていませんが)で戦死し香料諸島にはたどり着けなかったものの、スペインは次々と調査隊を派遣して太平洋側から香料諸島に到達させ、先に来ていたポルトガルに対して領有権を主張します。

 両国は協議したり調査隊を派遣したりして争ったものの、スペインはポルトガルの領有する港を使用せずに香料を持ち帰ることが困難であると理解し(太平洋を東へ戻る航路もありますがまだ困難でした)、結局は香料諸島の領有を諦めます。1529年、両国はサラゴサ条約を締結し、東方における両国の境をモルッカ諸島から東へ17度(297.5リーグ)進んだ地点と定めます。おおよそ現在のインドネシアとパプアニューギニアの国境にあたり、パプア島を東西に分割します。これによりポルトガルは地球一周360度のうち191度を、スペインは169度を領有することとなりました。

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 ポルトガルが領有・交易を認められた範囲には、マゼランが発見したフィリピン諸島、それにチャイナや琉球、日本も含まれます。後からスペインも条約を無視してやって来ますが、ひとまずはポルトガルが南から東アジアに進出することとなります。

南蛮接触

 ポルトガル人は、マラッカ陥落から2年後の1513年5月にはチャイナに到達しています。最初に来たのはジョルジ・アルヴァレスといい、大きな川の河口にあるタマンという島に上陸して入植地を築きました。これは現在の香港西部の屯門区にあたり、彼らは古来南海貿易で栄えた広州(広東)の珠江の河口に到達したのです。ついで1516年にはラファエル・ペレストレーリョが広州に赴き通商と国交を求めますが、明朝は入港と貿易は許可したものの、ポルトガルと国交を結ぶことはしていません。

 1517年にはフェルナン・ピレス・デ・アンドラーデが広州を訪れ、明朝との通商と国交を求めました。彼らは南京へ陸路赴き、皇帝(正徳帝)に謁見していますが、明朝にはポルトガルに滅ぼされたマラッカ王国のスルタンが逃げ込んでおり、彼らが危険な侵略者であると訴えました。明朝は彼らがもたらした交易品や大砲(フランキ砲)は受け取ったものの、疑いの目で見るようになります。実際危険な侵略者ではあるので仕方ありませんが。

 そうこうするうち、1521年4月に正徳帝が崩御し、ポルトガルとの交渉は打ち切られます。ポルトガル船は立ち退きを要求され、これを断ると大砲で攻撃されました。ポルトガル人は彼らが持ち込んだ大砲で打ち払われてしまったのです。使節団は捕虜として留め置かれ、何人かは海賊として処刑されました。明朝とポルトガルの関係が好転するのはかなり後の話となります。

羅馬劫掠

 ともあれ、ポルトガルとの関係強化で資金源を確保した皇帝カールは、フランス王フランソワ率いる対ハプスブルク同盟(コニャック同盟)およびオスマン帝国の侵略に立ち向かいます。同盟にはフランスと教皇のほかヴェネツィア・ミラノ・フィレンツェのイタリア列強が加わり、主戦場はイタリアとなります。皇帝軍はまず北イタリア(ロンバルディア)に侵攻してミラノを制圧し、教皇が籠るローマへ進軍しました。

 1527年5月、皇帝軍はローマに攻め込みます。指揮官のブルボン公シャルルは戦死しますが、怒りに燃えた皇帝軍は統制を失ったままローマに襲いかかり、破壊と掠奪の限りを尽くしました。長引く戦争と給料の未払いで気が立っていた上、カトリックを憎むルター派のドイツ傭兵も加わっていたためといいますが、恐れおののいた教皇は6月に降伏し、同盟から離脱します。

 フランスは英国とジェノヴァを同盟に引き入れ、南イタリアのナポリを攻撃させますが、ジェノヴァ軍を率いるアンドレア・ドーリアは形勢不利とみて皇帝に寝返り、ナポリ侵攻は失敗します。1529年8月、皇帝は叔母でネーデルラント総督のマルグリットを介してフランスと講和条約を結びました。人質となっていた二人のフランス王子は200万エキュ(1エキュ≒12万円として2400億円)の身代金と引き換えに釈放され、フランスはフランドル、アルトワ、トゥルネーの宗主権を放棄し、イタリアから撤退します。教皇も皇帝と和解し、皇帝に戴冠する代価としてラヴェンナとチェルヴィアを領有することとなります。ヴェネツィアも講和し、フィレンツェだけは皇帝軍に抵抗を続けますが翌年鎮圧され、メディチ家がフィレンツェ公に封じられます。

 緊急に講和が結ばれたのは、キリスト教世界にとっての共通の大敵であるオスマン帝国が東方から迫っていたからです。1529年9月、オスマン軍12万はハンガリーを経てオーストリアの首都ウィーンを包囲しました。オーストリア大公フェルディナントはリンツへ逃れ、兄カールや諸侯に援軍を要請しますが、寒さと補給不足のためオスマン軍は10月に撤退しました。

対抗改革

 しかし、欧州の動乱は終わりません。ドイツではルター派の諸侯や市民・農民が武装蜂起しており、スウェーデン王グスタフ1世は1527年にルター派を国教としてカトリック教会から離脱、デンマークでもルター派が広まっていました。フランソワやオスマン帝国はドイツのルター派諸侯を支援しますし、英国でもヘンリー8世が皇帝の叔母キャサリンと離婚(1533年)して英国国教会の設立を宣言する有様です。教皇クレメンスは権威をすっかり失墜させ、1534年9月に亡くなりました。

 劣勢に追いやられたカトリック教会では、教会改革を行ってルター派などに対抗しようという動きが起こります。これが対抗宗教改革です。1525年にはフランシスコ会の分派としてカプチン会が、1534年にはイエズス会が結成され、教皇直属の修道会として宗教教育や布教活動を行うことになります。このイエズス会の創設メンバーの一人がフランシスコ・ザビエルでした。

 1541年4月、35歳のザビエルはポルトガル王ジョアンの依頼により、インドで宣教活動を行うためリスボンを出港します。彼はゴア、マラッカを経て日本にまで赴き、キリスト教を伝えることになるのです。

◆十字架◆

◆十字架◆

【続く】

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