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あたりまえすぎて、気づかないこと。『日本人はなぜ無宗教なのか』阿満 利麿


日本人は無宗教」とか、よく言われます。でも、本当はちゃんと宗教を持っていて、ただ、それを意識していないだけというのが、阿満先生のお話。日本人の「無宗教」は実は「自然宗教」で、「○○○教」みたいなはっきりした、形や団体のあるものではなく、日本人もそれを宗教活動と意識しない(したがらない)からだそうです。

ちなみに、神道って日本伝統の自然宗教ではないのだそうです。日本の自然宗教を土台に、中国の思想で再構成されたもので(9世紀頃?)、自然宗教と「○○教」の中間にあたるとか。

もともと、日本の自然宗教ではいろんな神様がいる反面、死の汚れや死後救済についての考えがなく、それを補ったのが中国から来た仏教でした。そんな仏教も、インドで生まれた元来の姿ではなく、中国的に加工された死者祭祀儀礼が日本に入ってきたようです。

そして、中世に儒教が入ってきてからは、仏教は葬式方面に力を注いで「葬式仏教」として江戸時代まで続き、近世はキリスト教を禁止する過程で葬式仏教が社会の隅々まで広がりました。そして、明治になって国学者や儒学者が仏教を排斥しようとしても、「葬式仏教」だけは生き延びたのだそうです。

日本人は、よほどせっぱつまっても宗教が嫌いな人が大多数。だから、葬式にだけ仏教を認めている状況があります。日本人には、もともとの自然宗教の先祖崇拝霊魂観が根強くて、それに仏教の衣をかぶせただけなのが「葬式仏教」なのだとか。確かに仏教の考えだと、死んでから49日で別の何かに転生しますから、一回忌とか三回忌とか、あれって日本独特だと聞いたことがあります。

明治以後、政府は国教として「神道」を確立したいと思っていました。そして、天皇を統治者に仕立てるために、歴史上始めて伊勢神宮に参拝したり、宮中から仏教色を排除し、国内に神道を広める教部省まで設立しました。

でも、結局それは国内外の反対から(特にキリスト教との関係で)実現せず、「神道は宗教ではない」という理屈をつくりました(正確には、西洋の最新の理論を借用した)。そのとき、自然宗教は雑多であいまいなものにされ、神社組織が進められていくなかで、身近な神々は否定された、と阿満先生はいいます。

明治国家が非疑似宗教の「神道」によって国の体制を整えていく中で、既存の宗教家たちは政府に迎合し、また弾圧されていきました。この過程で、日本人の宗教観はますます狭まっていき、最終的に「無宗教」は日本人一般の身の安全を保障するものになったと阿満先生は結論しています。

以上が、この本のざっくりした内容ですが、私が一番興味を持ったのは、民俗学的な部分です。特に、「ムラ」(自然的血縁的つながりの小さなもの)についての記述は、現在の日本人のメンタルな部分をかなり反映しているような気がします。

まとまりが第一で、個人が良すぎても悪すぎてもダメ。平準化や平等(平均主義)がとにかく大事。悪口をお互い言い合って、感情のバランスを保っている。その結果、無宗教という状態が一番好まれる…


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