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京都の神社巡り〜玉田神社・珠城神社

1月13日

おっさんに迎えに来てもらい、お昼ご飯は久しぶりのかつやでした。

混んでいたのでカウンター席に左から他人・おっさん・私(右隣はいない)といった並びで座りました。

おっさんが右利きで私が左利きなので、この並びで座るの珍しいねなんて話をしましたね

コインパーキングに車を置き、この日最初にやって来た神社は京都府久世郡久御山くみやま町にある玉田神社です。この神社と言えば昨年修学旅行生が訪れた出来事がX(旧Twitter。)で話題になった神社でもあります。

来てみて、よく修学旅行生達この神社まで辿り着くことが出来たな…と思いました。行き方を調べてみるとバスでイオン久御山まで辿り着いてから15分程歩く、あるいはレンタサイクルを借りるみたいです。  ちなみに神社に駐車スペースがあるので車の方が良いかもしれません。
  
創建は元明天皇の和銅3年(710年)とされており、当時の御祭神は武甕たけみかづちの命・経津主命・天児あめのこ屋根やねの命・市杵嶋いちきしまひめの命の四柱でしたが、平城京遷都の際にほんだ田別命(応神天皇)・足仲たらしなかつ彦命(仲哀ちゅうあい天皇)・息長おきなが帯比売命たらしひめのみこと(神功じんぐう皇后)・武内たけのうちの宿禰すくねの命の四柱が鬼門封じの神として勧請され八柱となったと言われています。

現在の御祭神は、武甕槌命・誉田別命(応神天皇)・天児屋根命・武内宿禰命。

棟札によると、天正14年(1586年)5月に御牧城主「御牧勘兵衛尉尚秀」の発願により社殿が再建されたらしいのですが、丹波たには津宮づのみやとある事から木津川旧流路沿いの丹波津に鎮座していたと考えられています。

それから寛永14年(1637年)淀藩主永井尚政が淀城下町整備のため木津川の付け替え工事により現在の場所に移されたと伝えられている。

二の鳥居。

境内はこんな感じでした賑やかですね。

手水舎。

竹に顔がある…。

拝殿脇の狛犬さんは、お洋服を着せてもらっていて暖かそうですね。

火鎮石碑
※()内は私の注釈。

「玉田大明神火難避 御霊験名馬鎮由来」の版木が所蔵されておりそこには、『聖武天皇の御代(724年~749年)、左大臣・橘諸兄が 御牧みまき(朝廷が所有する牧場)の地より一頭の馬を献上した。 ある時、その馬がしきりにいななき続けるので、 人々は不思議に思っていたところ、三日後に宮中で火災が発生した。 その時は、発見も早く大事には至らなかった。 数日後、再び馬が三日間いななき続けた。 その三日後に、内裏にまで炎に包まれるほどの大火事が発生した。 馬はくつわを外して火中に飛び込むと、たちまち炎が静まった。 天皇はいたく感心され、馬に「火鎮ひしずめ」の名を与え、 玉田大明神の化身の神馬だとして元の御牧に返された』との伝承が残されているそうです。

この伝承に因んで、火難除けの神社として玉田神社は崇敬されています。

干支のベンチ

拝殿の飾り。

看板も可愛い。

本殿

後から玉田神社公式X(旧Twitter)で知ったのですが、本殿に龍の彫刻があるらしいです。行く機会がありましたら、探してみてください。

本殿の脇障子の彫刻。


 

末社の、左が姫大神社ひめのおおかみしゃその隣が稲荷社。

左から大己貴神社、中央に市杵神社、 右側に金比羅神社。 

久御山町出身で元プロ野球選手の片岡篤史さんが奉納された玉垣。

神社のあちこちにいた、うまみくじ。
右下のキャラクターは玉田神社の公認キャラクターであるマガタマダーです。

さてここからまた歩いて別の目的地へと向かいます。この日の天気はかなり不安定で日が差してきたかと思えば、雨が降り強風が吹き始めたりで大変でした。

京都府久世郡久御山町市田にある珠城たまき神社です。

御祭神は活目いくめ入彦いりびこ五十狭茅さちの命(垂仁天皇)・和気清麻呂です。

市田という土地には遥か昔、垂仁天皇の宮城(珠城宮)があったとされており、天皇崩御後にその霊を祀ったのが始まりとされています

それから延暦18年(799年)和気清麻呂の死に伴い、藤原葛野麿が勅使となり護法神社として珠城神社に並ぶ形で神殿を造りました。

それから行賀と呼ばれる僧が神宮寺を建て護王寺(本尊薬師仏)としました。しかし寺と神社は焼失と再建の末に無くなったそうです。神社は昭和42年(1967年)10月再建されました。

狛犬さん。

本殿。

まだまだ続きます。

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