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ルールベースで生き抜くことはできない

私自身もそうだが、人間は自分自身を首尾一貫した発言や行動をしていると思いたがる傾向性がある。なぜならば、例えば矛盾した発言をおこなう者は「ウソつき」だと非難されるし、行動に方向性がないものは役立たずだと思われるし、発言と行動がズレていれば「偽善者!」と罵られるからである。また、自分自身でも自分がそのように非難されるような存在だと思いたくないという規範を内面化しているからでもあるだろう。例えば、仮に自分自身に「首尾一貫した言動(げんどう、発言と行動)をなすべきだ」という規範を課し、それを意識して動いている場合、他人がそれを平気で無視するのに耐えられず、激しく避難したりイヤミを言ったりするかもしれない。そういう自分に気づいたり、他人の言動に気がつくこともある。したがって、やはり人間は自分自身が首尾一貫した人間である「べき」だと思っているし、実際そうだと思いたいのである。

一方、我々は発言や行動を改めて、自分自身を変化させる、すなわち行動変容させなければならない。なぜならば、我々を取り巻く環境はすべて歴史的一回性を帯びていると共に、環境の変化は常に予測可能であるとは限らないからである。あらゆる状況は千差万別であることを根拠として開き直り、まったく一貫性のない発言をしていいわけではない。なぜならば、もしそうすれば他の人々から信用を得ることはできないし、信用がなければ関わっていくことはできないからだ。したがって、我々は無条件にルールにしたがって一貫性をキープしようとしているわけではないけれども、だからといって前提条件である環境変化にしたがって何をなすべきかについてその都度考慮しなければならない。

我々は誰かと堅苦しい話━━例えば善悪の話や礼儀作法の話をするとき、すぐに相手の発言の矛盾、態度の矛盾を指摘したがるかもしれない。これもまた自然なことではあるのだが、我々が一度に二つの発言を同時にすることができない以上、そこにはタイムラグがあり、そのタイムラグの間に何か「気づき」「学び」を得たり、「配慮」を開始したのかもしれない。もし食い違いの指摘に対して、相手が自分自身で「気づき」「学び」によって前提条件が変化したことや、より良い「配慮」の可能性に注意が向いたことを明示的に説明することができればよいのだが、残念ながらそのような瞬時の事情変更を自覚するのは極めて難しいだろう。

例えば、相手によって対応を変えたり、家庭や職場などの文脈によって従うルールを取り替えることはよくあることだが、そこで「同じルールに従っていない!」と指摘したときに、なぜ同じルールにしたがわなくてもよいのかを即座に言語化できるとは限らないのである。なぜならば、例えば相手によって対応や口調を変えるのは無自覚かつ自然におこなうこともできるし、そういう場合がほとんどだからである。その場合、そもそも自分が従っているルールが変わったことや自分がルールベースで動いているかどうかすら考えていないだろう。なぜならばその必要がないからである。

だから、ルールベースでみて、相手に首尾一貫していないことを指摘できたとしても、相手が即座に答えられないからといって相手が不合理な存在だとか悪党だということにはならないだろう。というのも、単に自覚的に言語化できてないだけの可能性も十分あるからである。一方、そのような指摘もやり方によっては相手のメンツを傷つけることは十分あり得る。即座に筋の通った回答が提供はできないが、相手が自分のメンツやプライドを攻撃するために指摘をおこなったと感じれば、残念ながら情緒的にもなってしまう。それが人情というものである。だが、たとえ相手からそういう刺激的なかたちでの指摘があったとしても、保留したりやり過ごして自分自身のメンツを守り、相手のメンツも守るように努めるべきだろう。もし相手との関係を尊重して長続きさせたいならば、である。

(1,614字、2024.03.30)

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