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検索力

私は毎日何かを「検索」している。十代の頃にインターネットに初めて触れて以来、ネットワークにつながった端末に触れるたびに検索をしてきた。なぜならば、ネットワークにつながっている以上、検索しなければそれを使ったとは言えないからだ。かつ、ネットワークにつながった端末そのものが目新しく珍しかったからでもある。

例えば、テクノロジーの可能性はどこまであっていつ実現しそうか? ホームページはどうやって作ったらいいか? プログラミングで何ができるか? プログラミングを始めるには何が必要か? どうやったらゲームはつくれるのか? どこでポルノはみれるのか? ネット上でできる公的な手続きにはどんなものがあるか、書籍や映画の感想をみんなが書いているところはどこなのか? 欲しい商品を通販で買うにはどのページを見ればいいのか? この英単語の意味(日本語訳)は何か?

──なんでも検索すればとにかくそれにまつわる情報が出てきたものだ。もちろん昔も情報は玉石混交でマニアックな人が偏った情報を流しているのをみてそういうものかと思い込んだりしていた。フェイクはあったが、組織的なものは少なかった。当時はウィキペディアも無かったし、アフィリエイトや商売のために自動でコンテンツを生成するような仕組みもほとんど無かった。わずかにメーリングリストで集客しようとする人たちがいたぐらいであった。それでもはてなブックマークが盛んだった頃は何度もニュース記事に騙されたりしたものだった。本当にメディア越しに事実をつかもうとするのは困難であると悟った。

しばらくして、iPhoneなるものが登場し、さらに日本でもタッチパネル式のスマートフォンが普及して私自身も仕事で出張先に集合するのにガラケーよりもスマホの地図アプリを利用した方が圧倒的に便利なことに気がついたのは30歳前後のことだった。当時素朴に驚いたことのひとつは画像の解像度が段違いにあがって、ドットがみえなくなったことである。まるで写真だが、もうそんな違いを意識する人も今ではいないだろう。

もちろんガラケーでも毎日検索していたが、スマホになってからはもっと手軽に検索できる。毎日検索するようなキーワードがあれば、その「検索結果」のページをブックマークしておいて、ブックマークをクリックするだけで最新の検索結果を定点観測できるようにしておいた。今もそうしている。手元にずーっとスマホがあり、常に充電されていて、常に充電可能なようにコンセントにつながれたtypeCの充電ケーブルが自室に何個も常備されている。検索しない日は無い。

例えば今、画像生成する人工知能が一部で話題であるが、結局それも一ユーザからみれば、キーワードを入れて画像検索するのとさほど変わらないインターフェースに私には見える。もちろん、人工知能につくってもらえば、細々とキーワード(〝呪文〟と呼ぶそうだが)を作り込んでも、大量かつ著作権フリーの画像を手に入れることができるから、その点は画像検索との大きな違いである。ただ、これも結局はキーワードと論理演算子をうまく組み合わせるという基礎的な検索能力を前提にしているとは言えるだろう。

だからもうとにかく、検索するのは私にとっては何の意識もせずにおこなっている行動なのであって「調べよう」などという気持ちすら起きない。インターネットに落ちてる日本語情報までの距離は極めて近い。それは棚に並べてある商品を手に取るような気分である。「ネットで検索すれば出てくる」とか「ウィキペディアに書いてある」といったことは「周知の事実」と同じか、あるいは「常識」だと思っていた。たまたま知らなかったとしても数秒から数十秒で知れることに過ぎない。そんな知識に何の価値があるのか? 何の値打ちがあるのか? 何にもない。すべては共有財産である。

と、思っていたが、そんなわけは無いらしい。この先進国でこれだけスマホが普及した社会であっても、「検索」というのは非常に込み入った作業であるらしい。スマホのフリック入力であろうとタッチタイピングであろうと、意識的にやらなければ「調べる」ができない人の方が多いようだ。いや、本当に何が何だかわからない。ChatGPTでもGeminiでもノーコードツールでもエクセルでもなんでもいいが、検索やキーボードによる打ち込みなしには何もできないではないか。いったいどうして「検索」が血肉化していない人がいるのか、本当にわからない。私が偏っていることの証左である。

(1,844字、2024.07.01)

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