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NHK発達障害特集への意見に思うこと

こんにちは。あすぺるがーるです。

近日、NHKで連続的に放送されている発達障害特集番組について、様々な意見が当事者さんから発信されています。(今度こそ本題だ!)

そのなかに、こんなツイートを見かけました。

前回出した写真のツイートと違う?


あのツイートについては、後ほど触れます。


「映らない当事者」は存在する

まず、埋め込んだツイートの主であるすぎさんの言うことは、筋が通っていると思います。

発達障害でテレビに出演している人が、何らかの才能を持って活躍している人に偏りがちであるという事実は否定できないでしょう。


みんながみんな栗原類さんや野田あすかさんみたいに才能を持ってるわけじゃない。

二次障害が酷すぎて就労どころか外出もできないし、テレビ出演なんて夢のまた夢。


そんな発達障害の当事者さんは、私の周りに限ってもたくさんいます。


本来、立場の弱い民衆の意見を発信するために生まれたのがマスコミをはじめとするジャーナリズムです。

その使命は、今も変わっていないでしょう。


「映らない当事者」は伝えられるか

しかし、テレビに出演できる当事者の層に偏りができてしまうのは、ある程度は仕方がないことなのかな、と私は思います。

ある情報をいくら発信しても、多くの人に受信してもらわない限りその情報は伝わらないでしょう。

発達障害を知らない「多くの人」に発達障害を伝えるためには、出演者に「伝える力」がないといけないのです。


非当事者に障害特性を伝えられるか?

発達障害特集は、発達障害当事者だけのものではありません。

「発達障害」という障害の存在は知っていても、その実態は知らない「非当事者」も見ているわけです。

というかぶっちゃけ「非当事者」の方が多数派です。


そのため発達障害を啓発するには、多数派である非当事者に伝わるような伝え方をしなくてはいけません。


それは、言葉にすれば簡単なようでも、実際とても難しいことなのです。


ここに、ピカチュウを全く知らない、見たこともない人がいたとします。

その人に、ピカチュウがどんなキャラクターか分かるように説明しなくてはいけなくなりました。


「黄色くて、先の黒い長い耳を持っていて、ほっぺが赤くて、ギザギザのしっぽを持ったネズミのキャラクターだよ」


決して間違った説明ではないでしょう。

しかし、相手の頭に浮かんだのは、こんなキャラクターかもしれません。

何か違いますよね。

あなたがイメージさせたかったのは、こんなキャラクターのはずです。

(画像: https://prcm.jp/album/illustwordpic/pic/78876662より)


ピカチュウのように目に見えるキャラクターなら、画像を見せれば一瞬でイメージを共有できるでしょう。


しかし、発達障害はそうもいきません。

見せることもできない、科学技術でさえまだ改名しきれていないあなたの脳内を、あなたの感覚と言葉だけを頼りに、発達障害とは縁のない「大衆」に伝えなくてはいけないのです。


そして残念なことに「自分のことを他人に伝えるのが苦手」というのは、発達障害の特性として存在します。

それは、言語性IQが高ければ済む、という問題ではないのです。

人並み以上に単語の意味や単語の概念を理解できれば、言語性IQは高くなります。

しかし、その能力と、自分の内側の感覚を第三者に伝えることができる能力は、ほとんど別物に等しいです。

実際、言語性IQが120台あるのに自分のことを伝えるのに苦労している当事者さんが、知り合いでいます。

言語性は先天的なもので、高い言語性を持っている発達障害当事者さんは、一定数見受けられます。

しかし、「前提を共有していない他者に理解できるよう物事を伝える」能力は、訓練しないと身につきません。


そして後者は、自分の内情について他者と十分なコミュニケーションを取る機会を与えられなかった、ほぼ全ての発達障害当事者さんにとっての課題と言っても過言ではないでしょう。


そのため、メディアに取り上げられる発達障害当事者は「自分の内的感覚を発達障害に縁もゆかりも無かった第三者に伝えることができる能力がある」人に絞られてしまうのです。


取材なんかやってられない人も

発達障害当事者さんの中には、重い二次障害で苦しんでる方がたくさんいます。

そのような方が社会的に追い詰められ、喫緊で助けを必要としているのは、確かな事実です。


しかし、少し考えてみていただきたいのです。


「死にたい」しか考えられない状況で、取材なんて受けられますか?


Yesと言える人は、ほとんどいないでしょう。

もし言えたとしたら、あなたは重度の鬱状態の過酷さを分かっていません。



友達と楽しくカラオケをした一週間後、入院。



これが現実です。

重度の鬱状態の人にとって、運良く今日元気だったとしても、明日元気である保証はどこにもないのです。


ましてや取材が来る数週間、数ヶ月後に、取材を受けるだけの元気なんて、確保できません。


取材を受けるには、エネルギーが要ります。


事前に電話でアポを取る。

時間通りに取材場所に来る。

自分が映るカットの何倍もの時間、インタビュアーと話し続ける。


精神病棟に入院しなくて済んでいる発達障害当事者さんでも、この3つのうちどれかには、苦手を覚える人が少なくないでしょう。

入院を必要とする当事者さんの場合、状況はより過酷になります。



一番助けが必要な人には、声を挙げる力すら残されていないのです。


「才能があれば楽」という幻想

発達障害特集への意見について語る上で、もう一つ挙げておきたいことがあります。

それは、

才能のある当事者=楽に生きている当事者≠二次障害を持つ当事者

という図式です。

(引用RT後ブロックされ、元ツイも消されたので写真で失礼します)

才能を持っているからといって、才能を持ってない当事者より楽に生きられる保証はありません。

むしろ、かえって苦しむこともあります。


元ツイの「ギフテッド」というのは、先天的に特出した何らかの才能を持っている人のことです。

説明にあたって、狭義でよく使われる「全検査IQもしくは群指数のうち1つが130以上」と定義される「知的ギフテッド」を例に挙げます。


かく言う私も、その一人です。


私の知能検査の数値をグラフに表すと…

こうなります。

一つでも130越えなら該当だからギリギリ引っかかる…はず。


でも、全然生きやすくありません。


言葉が使いこなせるから、助けは求められる。

理解さえできれば、記憶力には自信がある。

だから、勉強はできた。



高校までは。



高2に入り、国立理系コースに入ったら、数学の授業についていけなくなった。


定理は理解できていた。

ただ、板書と問題を解くスピードが、授業からどんどん遅れて行ったのだ。


そしてとにかくイージーミスだらけだった。

それらは、指摘されればすぐ分かるようなささいなものだった。


でも、自力で気付くことはできなかった。

イージーミスは問題が複雑になればなるほど積み重なり私の答えを狂わせていった。


このときの私の第1志望の学科は、文理どちらでも受験可能だった。


私は親に何も言わず、文転した。


文転した私を待っていたのは、進路をめぐる母と教師との攻防戦だった。


母「担任は、進学実績を増やすため滑り止めで女子高や外大を受けさせようとしている。それはあなたのためには全くならない。抗うべきだ」

担任「とにかく、れんなさんの行きたいところを受けなさい」


心から信じていた先生方を敵に回すような母の言い分は、当時の私を深く傷付けた。


母は、私が第一志望の大学に入ることを渋り、代わりに難関私大の法学部に入るように圧力をかけてきた。

私は、私大の法学部への入学は反対だった。


でも、受かってはみたかったのだ。

自分の腕を、試したかった。


私は第一志望の大学と、私大の法学部の両方を受けた。


3学科受けた私大の法学部は、1つだけ合格。


その時点で母は、私に私大の法学部に入るように圧力をかけてきた。

私が「入学する」というまで、圧力をかけるのを止めなかった。



私の抵抗は、辛くも敗れた。



私大の法学部の方が、受験日も入学手続きも先だった。



母の志望と出願期限に押し込まれるようにして入った法学部の勉強は、あまりに過酷すぎた。



優等生で築き上げた自尊心は、大学2年生で木っ端みじんに打ち砕かれた。


そのときから、進路に限らず、私の人生に関するほとんど全ての決定権を握っている母との、仁義なき防衛戦が始まった。


確かに、母のおかげで早く診断がもらえた。療育もカウンセリングも現状可能な限り受けさせてもらえた。衣食住にも困らなかった。大好きな本もたくさん買ってもらった。先生方は優しくしてくださった。少ないながら友達もできた。高校半ばまで勉強に困ることはなかった。難関私大にも受かった。


先生方の、そして母の尽力によって言葉だけは使いこなせるようになったのは、私の人生に無関係とは言えないだろう。

言葉を上手く使えなかったり、才能と呼べるものを見い出せない人の苦しみを否定するつもりはない。



ただ、私は苦しんでいる。


私の人生を支配してくる、母に。


将来の保証がない、現実に。


そして言葉を操る以外無力も同然な、自分に。



発達障害など他の障害を併発しているギフテッドは「二重に例外的である」 (twice-exceptional) の意で「ギフテッド2E」と呼ばれます。

ギフテッド2Eの人たちは、得意なところだけに関しては並外れた才能を見せますが、不得意なところは他の人よりはるかに劣ることが少なくありません。


得意なことと不得意なことの大きすぎる差は、ギフテッド2Eの人たちの自尊心を深く深く傷つけ、ときには二次障害にまで陥らせることがあります。


とりわけ、発達障害の特性として根強く存在する人間関係の困難さは、社会生活において大きな壁となります。


才能があるからといって発達障害の特性が消えるわけではないし、いくら才能があっても、どうにもならないこともあるのです。

そして、その苦しみもギフテッドでない人の苦しみと同様に、伝えられるべきものなのです。


「声なき声」を伝えるためには

とはいえ、テレビに映ることができない発達障害当事者の声が伝わらないなんてことは、あってはならないと私は思います。


では、どうすれば「映らない当事者」の「声なき声」が伝わるのでしょうか。


「映らない当事者」が声を挙げられないのなら、「映る当事者」が代弁すればいい。

私はそう思います。


できる限り重度の発達障害当事者さんに接し、その声を汲み取り、電波に乗せることができれば、「声なき声」を伝えることはできます。

もちろん、完全に伝えるのは無理だし、自分のフィルターの色に少し染まってしまうかもしれない。


それでも、何もしないで現状を嘆くよりはマシでしょう。

「映らない当事者」だって、取材という形式に縛られることなく代弁者に自分を伝えることで、間接的に声を挙げることができるのです。

だから、もしあなたが発達障害当事者としてテレビに出演することが決まったら、少しでも「映らない当事者」の存在を思いながら話してほしいのです。


私にも、重度の二次障害を負った当事者仲間が何人かいます。

私の言葉は、仲間たちの声を伝えるには、あまりに拙いかもしれない。

それでも、言葉を操ることしか能がない以上、そんな仲間たちのことを常に頭に置いて、発信を続けていこうと思います。


長くなってすみませんでした。

あと、愚痴だか自慢だかよく分からない自分語りもすみませんでした。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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