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文化選好論


―― 守るとは何か? 文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守ろうといふ企圖は必ず失敗するか、單に目こぼしをしてもらふにすぎない。「守る」とはつねに劍の原理である。 ――


上のような主張に、私はけっして組しない者である。

そのような「劍の原理」に基づいて展開された『文化防衛論』など、さういふ企圖の方こそ必ず失敗する、と信じて疑わない者である。

さりながら、

「言論で言論を守ろうといふ企圖は必ず失敗するか、單に目こぼしをしてもらふにすぎない。」

この点については、その通りであると思う。

というのも、

最近亡くなったとある小説家に、「新しい人になってください」などいう説教臭い言論をば、ことさらに好んでくり返して使う者がいた。

が、その者のしたためた文章とは、ひっきょう「理屈(あるいは屁理屈)」どまりで、「文化」たりえなかった。

また彼の文章は、「理屈っぽい」ばかりで、少しも「美しい」という状態に至ったためしがなかった。

その証拠に、彼自身いみじくも言っていたことには、「自分は自分の小説に満足できない」と――。

それゆえに、まことにまことに残念ながら、そんな「文化崩れ」にとってこそもっとも相応しい冠であるところのノーベル賞なんぞを、ヨソのお国様から「授けられて」は、嬉々として踊ってみせるような愚に徹するしか、手立てがなくなってしまったというわけなのである。

授けたのは、いったい誰なのか――?

そういう素朴な問いかけさえ、ついに自身に向かってしたこともなきままにか、あるいは十二分に承知していながらにか、知りたくもないし、知る価値もないが……。


はっきりと言っておくが、ノーベル賞なんてものは、「文化」ぢやない。

栄誉でも達成でもなければ、なにものでもありはしない――まさにまさしく裸の王様のやうな、「嘘」や「屁理屈」といったマトハズレな言論に対する人間的な、あまりに人間的な「目こぼし」にすぎない。

もとい、「目くらまし」と言った方がより適切というものであろう。

それゆえに、

もっともっと、はっきりとはっきりと言っておくが、そんなノーベル賞作家ごときの論法をもってしては、「人の心」は、まずもって動かせない。

たとえノーベル賞を三度もらう価値のある、この世界を変えたような「新しい発見」や「新しい発明」から生じた、「新しい文明」をもってしても、「人の心」たるものは、そう簡単に動かせるものではけっしてない。

新しい文明は、新しい生活を作る。

しかし、新しい生活が、新しい人間を作るとは限らない。

であるからして、「新しい人になってください」などいうペダンチックなお説教なんかをもってしては、ぜったいに無理、なのである。

ここでこの文章の結論じみたところまで言ってしまうならば、新しい人間を作るものとはその人の内に宿った新しい心、ただそれだけけなのだから。…


それでは、そんな「新しい心」とは、いったいなんのことであろうか――?

その問いに答える前に、冒頭の「守るとは何か?」という問いかけに対して、まずもって答えておきたい。

それは、「選好」である。

「選好」とは、好き好み、選び分け、選び取るという行為のことである。

他の誰でもない――国でも、政治でも、いかなる共同体がやるのでもない――取るに足らない一匹の、孤独な、あまりに孤独な「わたし」が、そうするのである。

それも、議論や言論や理屈やの中で、やるのではない。

まして、「劍」を振りかざすような物騒な実力行使も必要ない。

呼吸や食事や排泄やをくり返すような、「ツマラナイ日常生活」においてこそ好き好み、選び分け、選び取るのである――たいていの場合においては本能的に、遺伝的に、無意識的に。

だから、「選好」とは、「守る」とは、けっしてけっして特別な、英雄的な、革命的な行為ではないのである。

むしろ「ふつうのことをふつうにやる」というレベルの、日常的な、あまりに日常的な話である。

それでもなお、選好すること。

あくまでも、選好を継続すること――これがけっきょくのところ、真の強さであり、真の防衛なのである。

なぜとならば、継続とは時間の連続性のことであり、己の腸をかっさばいて見せてまで守りたかった「文化」とは、時間の連続性の上に成り立っているのだと、ご自分でもおっしゃっていたのではなかったか。

そうであるならば、

なによりもまず、「わたし」の中で継続すればよかった。

そんなにも「文化」が大切だと思ったのならば、ほかならぬ己の「心」の中でこそ、守り抜けばよかった。

そして、ただそれだけでよかった

己の心の中に息づく「不可視の文化」さえ確かだったならば、国体だの風土だのの上に現れた「可視の文化」の混乱や衰退やにまみえても、過剰なるパラノイアに囚われて、クーデター未遂などという茶番劇を演じるハメに陥らずに済んだのである。

がしかし、

「文化が文化を守ることはできず…」というふうに思わされなければらないほど、「追い詰められていた」彼には、それは無理な注文であった。

そもそも、「ふつうのことをふつうにやり続ける」事ほど、「行うは難し」な事もないから。

ことに臆病で、小心で、不安な根っこをだき抱え、さらには「敗戦」という実体験をして、そんなやわな精神をば決定的に打ちのめされてしまったような経験に、終生悩み苦しんだような彼においては、たった半日あまりのクーデター未遂の方が、長日月との勝負である継続よりも、魅力的な誘惑だったのである。


それでは、己の中に息づく「不可視の文化」とは、なんであろうか?

それは、先祖や歴史や伝統といったものと同じく、「不可視の根っこ」のことである――なぜなら、それが時間の連続性の証(あかし)であるから。

それゆえに、「文明」とかいう、表向きばかり真新しい幹や枝葉なんかよりも、それははるかに「しつこく」、はるかに「しぶとい」ものである。

ここについては、あえて言論的な、いくつかの実例を挙げておこうかと思う。

すなわち、

「公用語をフランス語に」なんてブラックジョークをのたまった志賀直哉よりも、そのヨーロッパ大陸で外国語を実地に学んだ経験を持った森鴎外の日本語の方が、より含蓄で、より簡潔で、より「美しい」。

同様に、「小説の神様」などと持ち上げられながらも、日記に毛の生えたような作文しかできなかった同人の日本語よりも、やや饒舌と冗長にすぎながらも、江戸と明治を融合させてみせたような夏目漱石の日本語の方が、読んでいても、写し書きをしてみても「面白い」。

同様に、数多の外国語に精通し、世界文学とかいうコンテクストを終生意識し続けた大江健三郎の日本語よりも、おそらくはそんなことを考えたこともなく、ある時期よりもっぱら閉ざされた空間において創作を続けた谷崎潤一郎の日本語の方が、はるかに「美しい」。

同様に、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」などいう日本国憲法の大嘘を喧伝し続けた同人よりも、『憂国』なんぞいうファンタジーに憑りつかれて死んだ三島由紀夫の日本語の方が、まだ「マシ」である。

同様に、『沈黙』に登場した神よりも、『黒い雨』に隠喩された神の方がより正確に神の本質を表現しているように、遠藤周作よりも井伏鱒二の書いた日本語の方が、まったくもって「含蓄」である。

まだまだあるが、

これらすべての小説家たちの書き残した、ありとあらゆる日本語よりも、丸山健二ただひとりがしたためた日本語の方が、圧倒的に圧倒的に「美しく、素晴らしく、偉大である」――!

言うまでもないことではあるが、

以上のような「実例」は、すべてなべておしなべて、私の偏見と独断に基づいている。

さりながら、

先に言っておいたように、「文化とはまずもって、己の心の中で守るもの」である。

臆病な、小心な、不安な「個人」の、その不安定な「心」の中でこそ選好し、継続し、その結果として、守り抜くのである。


私はたとえばこのようにして、「日本文化の核」であるところの「美しい日本語」を、私の中で選好し、守り抜いて来た。

それも、右も左も分からなかったような、不安定きわまりなかった子供の頃から、そうして来た。

多文化主義を提唱する大陸国家において生活した思春期の頃から、

多民族同士が寄り合い、もみ合っていた多様性社会の中で育まれた学生の頃から、そうして来た。

多様性という「嘘」や「虚構」やが、透明な衣装を着せられて、裸の王様のように大手を振ってのし歩いていたような異国の街中にあっても、

アジア、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、ユーラシアの多言語が飛び交い、ひしめき合っていた言論空間の中にあっても、

そんな中の、「圧倒的少数派たる日本人」であった時にも、

少数派の中の少数派たる「孤独な個人」であった時にも、

私は、「美しい日本語」を愛し、選好し続けてきた。

ユダヤ教や理想や、キリスト教の理念やばかりがもてはやされるような、いびつなイデオロギー空間の中でも、

日本の歴史もマトモに教えられることもなく、男系男子の皇室伝統も忘れ去られ、八紘一宇という言葉すら誰も知らなかったような無知無学な空気の中でも、

そのような家庭や、学校や、地域や、社会や、国の中でも、

私は、「美しい日本語」を愛し、守り続けてきた。

それが、私の中の「不可視の文化」であって、それは「可視の文明」や「可視の文化」よりも、はるかに強く、はるかにしぶとく、はるかに魅力的なものであったから。

そして、

これこそが、私の「ふつう」であり、「ふつうのことをふつうにやった」という「継続」であったのである。

(すべては、まるで周りのすべての人間たちがフォワグラを食み、北京ダックを咀嚼し、あるいはピザやハンバーガーにかぶりついていた中にあっても、ひとり味噌汁をすすり続けたという類の、取るに足らないような話でしかないが…。)


それでも私は、このような私の「継続」を、誇りにしている。

たとえ世界中の人々から冷笑され、嘲笑されようとも、けっして誰からも奪われることも、否定されることもない、私の誇りである。

「自分で食べて、自分で味わえ」という言葉の通りに、私は「多様性」という「嘘」を、私の人生をもって食べて、味わった。

そして、その中で、私はひたすら味噌汁をすするように、「日本語」という美しい言語を味わい、選好し、それを継続した。

それゆえに、

仮にその頃と相も変わらぬ臆病な、小心な、不安定な「心」であったとしても、

私には恐れるものなど、何もない。

たとえ、合法的侵略者たちの汚らわしき足によって日本の国土が踏み荒らされたり、汚らしきその手によって「可視の文化」が破壊されたり、その結果、悪しく、卑しく、えげつもない「多様性」ばかりが、我が物顔をして広小路をのし歩くような時代が、現実に訪れたとしても、

私には恐れるものなど、何もない。

たとえ味噌汁の一杯さえ、満足にすすれないような状況に陥ったとしても、

そのような苦境に立ち向かう力もなく、そのような屈辱に苦しむ人々を救うような知恵すらなかったとしても、

私にはやはり恐れるものなど、何もないのである。

なぜとならば、

「新しい文明」であろうが、「新しい生活」であろうが、「新しい文化」であろうが、

あるいは「新しい天皇」であろうが、「新しい日本」であろうが、なんであろうが、

私にとっては、すべてはすでに「経験済みの戦い」であり、しかも「勝利済みの戦争」であるからだ。


多種多様な文明文化のひしめき合う「外界」における、

孤独で独善的な閉ざされた「内界」、

それこそが、ひっきょう、あらゆる人間の「心」の様相である(所詮であり、本質であり、限界である。しかし…)。

それでも、

そのような「孤独な心」のために、

「ふつうのことをふつうにできるか」が、

「ふつうのことを、ふつうにやりつづけることができるか」が、

「心の防衛」なのである。


それゆえに、

どこにでも散らばっているような「ふつうの日常生活」の中にあって、ちっぽけな自分の「心」ひとつ守れない人間がいるとしたら、

そんな人間がどうして、厖大な時間の連続性から生み出された「形」や「様式」やを、保守できるだろうか。

「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」

という言葉のとおりである。


しかししかし、

私の真の問題は、ここから先にあった。

すなわち、「守る」だけの問題であれば、「文化としての美しい日本語を選好し続ける」だけで、話は済んだはずである。

けれども、

私は可視であれ不可視であれ、自分の愛する文化を自分の心の中で守れれば、それで満足であり幸せである、というような類の人間ではなかった。

丸山健二のような「最高の日本語」を、自分の中で守り抜いて、それで満足できたならば、私の「無名の小説家」としての人生目標は、すでに達成されたはずだった。

しかし、そうではなかった。

そうではなかったために、こんな文章を書いているのである。

私は、丸山健二よりももっともっと美しい日本語を書きたい、書かねばならない、そうでなければ、自分はけっして満足できない…!

――残念ながらというべきか、本当に良かったというべきか、

いずれにしても、私はそのような類の人間であったがために、まだとうてい死ぬわけにもいかず、これからも、しぶとく生きていかねばならないと思っているのである。

それゆえに、

「もっともっと美しい日本語」とは、ひとえに、私の「心」にかかっている。

私はそのためにも、毎日毎日、昨日まで守って来た「心」よりも「新しい心」を望み、朝ごとに尋ね求めて来たのである。

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れる」という言葉のとおりに…。


だが、

これについては、また別な文章をもって書こうと思うので、私の『文化選好論』は、ここで終わりにしておきたい。

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