無名の小説家

不可視の教会を心に持つ者は、そこに復活したイエス・キリストの霊の宿る者である。キリスト…

無名の小説家

不可視の教会を心に持つ者は、そこに復活したイエス・キリストの霊の宿る者である。キリストを復活させた父なる神の霊によって生きる者は、完全に自由である。が、不可視の教会を心に持たない者は、可視の教会に心身を支配される。支配しているのは人に恐れを抱かせて、奴隷とする天上の悪の霊である。

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能登の祈り

―― 語り継ぐ人もなく 吹きすさぶ風の中で まぎれちばらる星々の名は 忘れられても 旅はまだ終わらない ―― ちはやぶる地動が、一縷の幽光も許さぬ黒暗淵(やみわだ)の底で狸寝入りを決めこんでいた冷たい水を叩き起こし、わだつみの神々を怒らせ、ささやかなる平和のまどいの内の同胞たちを、春の花嵐のごとく吹き散らした… 怒りは神々だけのものでなく、憤りは神だけのものでもない、 怒りは、引き剝がされた桜雲のごとき「人」の心であり、まぎれちらばる一枚いちまいの花弁は、それかあらぬか

    • ヨブは語り尽くした…(文学ってなんだ 22)

      ―― 腹の内で霊がわたしを駆り立てている。 見よ、わたしの腹は封じられたぶどう酒の袋 新しい酒で張り裂けんばかりの革袋のようだ。 ―― ―― わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。 知っていたというなら 理解していることを言ってみよ。 ―― 20世紀初頭、ジョイスの『ユリシーズ』やブルーストの『失われた時を求めて』やによって、文学はやれることをやりつくしてしまったといった主張が、欧米の文壇を中心に、実にかまびすしく叫ばれていたという。 それかあらぬか、1950

      • 信仰によって、聖霊によって ②

        ―― “霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。 ―― まただからこそ、 わたしはこれまで、やはりいくどとなく「文字の聖書よりも、自分の人生という聖書を」というような言葉遣いをも、し続けて来た。 このわたしの言葉の、「文字は

        • 信仰によって、聖霊によって ①

          ―― わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 ―― ごく簡潔な筆致ときわめて単刀直入の物言いとをもって、はっきりとしたためておく。 わたしはすでに、なんどとなく語って来た。 すなわち、「聖書は信仰によって読むものである」、と――。 だからここに

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          バカの、バカによる、バカのための…

          ―― 見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。 ―― たかだか暗殺を免れ得た一人の小男の、高々と右手を掲げてみせたる絵面の与えし世にも低次の印象よりも、社会における個々の諸問題に対する一つ一つの政策と、それら一つ一つを丁寧かつ確実に現実たらしめるための法律の諸草案とをつぶさに検めてこそ、国家のリーダーたる者とは決定されべきはずであるというのに、 民主主義だか資本主義だか自由主義だか、あるい

          バカの、バカによる、バカのための…

          出バビロン

          ―― ほめよ ほめよ 主の御名をほめよ 主の右手は わたしの歌 力 救いの手  命つづく限り 主に歌え ―― ここ数百年あまり、世界中で叫ばれ、提唱され、実践され、あるいは犯され続けて来た資本主義や共産主義、デモクラシーやグローバリズムとは、とどのつまり、その体制の中にあって生まれ、育まれた蠢爾の民衆について、いかに生かさず殺さずの、否、搾り取るだけ搾り取ったあげくのはてに、口減らしと口封じのために屠殺するための、愚かにして従順なる家畜として”商品化”するべく勘案され、計算

          海を割る

          ―― モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。 エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却

          生きたくば、虚心坦懐に聞け

          ―― しかし、イエスは言われた。 「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 ―― 『神殿なんかいらない』という文章の中で、私はかつてこう書いている。 ……イエス・キリストは生きている。 原初の昔のその前から生きていたし、過去の歴史の中にも生きていたし、今のこの時代の、この瞬間においても、生きている。 わたしのかたわらで、わたしの姿をその佳美しい虹彩の中に映しこみながら、動いている。 昨日は右へ行け、

          生きたくば、虚心坦懐に聞け

          もののあはれ

          ―― 神を畏れることは知恵のはじめである 愚者は知恵と訓戒とを軽んじる ―― さて、わたしはここにはっきりと書き記しておくものである。 彼らが聞こうと聞くまいとわたしの言葉を語れ―― という命を下されたかつてのある者のように、哀歌と呻きと嘆きの言葉をもって...。 一年の計は元旦にありという格言には、この国の先祖たちの生きた知恵が込められている。 何事もことの始まりが肝要である――そんな元日の一日にあって、本年令和六年一月一日に能登地方を襲った巨大地震とは、けっして

          自分で食べて、自分で味わえ

          ―― ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。 ―― とても単純な、あまりに単純な筆遣いをもって、これまでなんどとなく確言して来たことと同様の事柄を、ここにふたたびもってはっきりと書き記しておくものである。 すなわち、 死人を復活させ得る力を持った神にせよ、罪を赦し得る権限を有した神にせよ、いったい「神」なる存在とは、自分の足をもって探しまわり、自分の目をもって仰ぎ見るものである。 その

          自分で食べて、自分で味わえ

          あてがいぶちの命

          ―― 彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る。 その卵を食べる者は死に 卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す。 くもの糸は着物にならず その織物で身を覆うことはできない。 ―― バカはあてがいぶちの教育を修了すれば、それでよしとする。 バカはあてがいぶちの報酬を得ていれば、それで満ち足りる。 バカはあてがいぶちの預金年金にしがみついて、それで生き長らえようとする。 バカはあてがいぶちの憲法を押し頂いて、それを顧みることもない。 バカはあてがいぶちの法話をありがたがって、それにお布施す

          あてがいぶちの命

          不可視の教会

          ―― かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。 ―― こんな日が自分の人生の上に訪れるとは思ってもいなかった。目に映るところはすべて神に対する疑いと怒りと憎しみしか生まず、死と絶望と孤独とばかりがひねもす満身にもたれかかって来るばかりだというの

          かみおもふ、ゆえにわれあり

          ―― 神想う、ゆえに我あり ―― 彼の「ゲッセマネの祈り」を聞き及んでより、ことあるごとに、それについて考えさせられて来たものである。が、今この時ほど強く、思いを馳せたこともなかったかもしれない。それと同じぐらい、同じ彼による「十字架上の死」についても。 先に結論から述べてしまうが、これらはいずれも、すべて、現在進行形の話であるということだ。 すなわち、なにひとつとして、「すでに終わった話」などではありえない。 すくなくとも、これからわたしの語らんとする「ゲッセマネの

          かみおもふ、ゆえにわれあり

          約束の地

          ―― いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 ―― 黒暗暗たる懊悩煩悶の中にあって、なんどもくりかえした。 かの若き日に、聖書なんか、手に取らなければよかった、 偽善と欺瞞の教会の門なんぞ、くぐらなければよかった、 腐敗と堕落のユダヤ教キリスト教だのいう世界のいっさいに、関わるべきじゃなかった、 かてて加えて、 「イエス・キリスト」をなど、けっして知ろう

          命をかけた祈り ③

          ―― たとえ王宮の半分をくださっても、わたしは一緒に参りません。ここではパンを食べず、水も飲みません。 主の言葉に従って、『パンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻ってはならない』と戒められているのです。 ―― ―― さあ、立て。ここから出かけよう。 ―― 事の詳細はだれに問われても語らず、なにを引き換えにしてもけっして口外することもなければ、たとえこの世の富と繁栄のすべてを与えてやろうと迫られても、ぜったいに譲歩することはしない、 ただし、私はかつて、大きな

          命をかけた祈り ③

          わたし、わたし自身のために...

          ―― わたし、このわたしは、わたし自身のために あなたの背きの罪をぬぐい あなたの罪を思い出さないことにする。 わたしに思い出させるならば 共に裁きに臨まなければならない。 申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。 ―― 今は昔の話として語りうる事柄となったものだから語るものであるが、かつて、私の愛した人はある者によって奪われた。 その者は、私の愛する人に対しても、私に対しても、大きな罪を犯した。 それはもはや取り返しのつかない間違いであり、生涯をかけても償いきれないよ

          わたし、わたし自身のために...