命をかけた祈り ③
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たとえ王宮の半分をくださっても、わたしは一緒に参りません。ここではパンを食べず、水も飲みません。 主の言葉に従って、『パンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻ってはならない』と戒められているのです。
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さあ、立て。ここから出かけよう。
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事の詳細はだれに問われても語らず、なにを引き換えにしてもけっして口外することもなければ、たとえこの世の富と繁栄のすべてを与えてやろうと迫られても、ぜったいに譲歩することはしない、
ただし、私はかつて、大きな罪を犯した。
ここで「罪」というのは、ただ単に、選択の間違いとか、決断の失敗のことを示唆しているばかりであり、まかり間違っても、いわゆるこの時代のこの人間社会における民事、刑事のいずれかの法によって裁かれるべき性質を帯びた、「犯罪」の類のものではない。
それでも私は、れっきとした、「罪」を犯した。
罪を犯したその結果、それから十年、いや二十年という日月を経た後になって、自らが心から愛した人をば、失うはめとなった。――失う、奪われる、奪い攫われる、略奪収奪強奪せられる――どのような言葉遣いが、この場合においてもっとも適切か、いまだ知らないし、終生、知りたくもない。
ただし、これだけは、ただこれだけは、はっきりと分かる。
私がかつて罪を犯したがそれゆえに、ただそれゆえに、私は私の愛する人を、失った。そして、その人とは、私自身だった。
だから、私はかつて、その人と出会うはるか以前から、その人に対して罪を犯していたように、その人と出会った後の私に対しても、罪を犯していたのであった。
それゆえに、
それゆえに、
この私は、私に対して、私が失った愛する人に対して、そして、かつて私が罪を犯すその様子をばただじっと見つめていたわたしの神に対しても、ここに、はっきりと言うものである。
私はもはや二度と同じ罪をば、犯すことはない、と――
すなわち、私はもう二度と、かつての罪を犯すためにこそ私を殺さず、殺さずに今日まで生かして来た「この世」とは、けっして妥協することはない、と――。
くり返しになるが、かつて私が犯した罪の詳細は、だれに問われてもけっして語らず、なにを引き換えにしても口外することもなく、たとえこの世の富と繁栄のすべてを与えてやろうと迫られても、譲歩することはない。
それと同様に、なにを引き換えにしても、いやしくもこの世の富と繁栄のすべてを与えてやろうと匕首を突き付けられようとも、私はもはやぜったいに「この世」と譲歩することもなければ、交渉することも、取引することもしない。
私はかつてそのようにして、私自身に罪を犯し、私の愛する人に罪を犯し、わたしの神に罪を犯し、私自身を、愛する人を、わたしの神を、失って来たのだから、
私はもう二度と、私に対して、愛する人に対して、わたしの神に対して、同じ罪を犯すことはない。
だから、もしも同じ罪をばもう一度犯すことになるぐらいならば、文字のとおり、今日この一日が終わるまでに、わたしの神イエス・キリストと、キリスト・イエスの父なる神が、私の命を取り去ってくださるように。
二つに分かれた道を前にして、人はどちらへ進むことも許されている。
どちらへ進んでも、後になってそれが運命だったと言うことまで、許されている。運命は人に対して二つの道を用意するように、それぞれの答えをも用意する。同じ運命が別の答えを用意して、決断を待つ。だから人の問題はいつでも、選択の問題なのだ。
私は、「この世」となんか、妥協しない。
ヨルダンの向こう側へ渡ることもなければ、この世の宝のすべてがいらない。
かつて神の憐れみの山の頂と、神の恵みの荒野の果てで、モーセが、イエスが、笑いながらそう答えたように、
この私もまた、笑いながら、答えるばかりである。
私はもう二度と、同じ罪は犯さない――
もはや一生、私は私自身と、愛する人と、わたしの神と失うことも、奪われることもない――
それが、二つに分かれた道を前にして、私の選んだ道なのだから。
このような、
ただこのような、私の想い、私の愛する人の想い、そして、わたしの神イエス・キリストの想いをば、祈りの言葉をもって伝えるためにこそ、
私はここまでやって来た――
ここまで、今日の、この今日という日に至るまで、書いて、書いて、書いて来た――
たとえ目に見える限りの、可視の人生においては、愚かな、あまりに愚かな罪を犯し続けて来ただけの人生であっても、
目に見えない、不可視の人生にあって、神は、わたしの神は、ずっとずっと、ずっと、私を選び、選び、選び続けて来た――
だから、神よ、わたしの神よ、イエス・キリストよ、キリスト・イエスの父なる神よ、
そんな万感の想いを伝えに来た私の祈りに答えて、あなたの答えをば、私のこの目に見せてください。
たとえ虫けらの命にすぎずとも、命をかけないところに命はなく、命をかけない祈りに力はなく、命の宿らない祈りに香りはない――
たとえ虫けらの命にすぎずとも、私の想い、愛する人の想い、わたしの神イエス・キリストの想いを伝えるために、私は命をかけてここに祈るものである。
さあ、わたしの神よ、イエス・キリストよ、父なる神よ、命をかけた祈りに応えて、あなたの答えをば見せてください。
そして―――――
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