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ヨブは語り尽くした…(文学ってなんだ 22)



――
腹の内で霊がわたしを駆り立てている。
見よ、わたしの腹は封じられたぶどう酒の袋
新しい酒で張り裂けんばかりの革袋のようだ。

――


――
わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。
知っていたというなら
理解していることを言ってみよ。

――


20世紀初頭、ジョイスの『ユリシーズ』やブルーストの『失われた時を求めて』やによって、文学はやれることをやりつくしてしまったといった主張が、欧米の文壇を中心に、実にかまびすしく叫ばれていたという。

それかあらぬか、1950~60年代、すなわち「戦後」にあって、「時代の寵児」だなどともてはやされていた東西の文学者どもとは、「セックスこそラストフロンティアだ」と盲信し、もって野卑な、下品な、グロテスクな、おおよそ不潔も極まった吐しゃ物のごとき駄文冗文をば「文学」として、あるいは「芸術」として人々へ売りつけた。

で、結果、売れない、もしくは、ただちに飽きられ、ついでバカにせられるという、至極当然の成行を見た。

そこで、それがために「ルサンチマン」に陥った「時代の寵児たち」は、そんな己のなよなよした、どろどろした、べどべとした、ぐちょぐちょした、甘ったれの精神を持て余したあげくのはてに、よりいっそう下劣で、下等で、腐敗を極めた魂胆をば、たとえば「アンガージュマン」、しからずんば「ディタッチメント」なる虚偽や、虚勢や、屁理屈や、へらず口やの裏側にひた隠すようにして、社会へ、政治へ、宗教へ、発言の場を移していったのであった。

が、はっきりと言っておくが、これぞ文学者として、小説家として、そして芸術家として、「ザ・マトハズレ」な態度であり、生き様であり、死に様というものなのである。

なぜというに、「文学はやれることをやりつくした」――この始点(もしくは終点か?)からしてが、すでに間違えており、誤解しており、カンチガイしており、それゆえに「的を外している」からである。

それだからして、「戦後」の文学者など、洋の東西を問わず、おおよそ傲慢で、はなはだ変態で、はてしもなく幼稚で、反吐が出るほどバカで、生粋かつ永世的に非芸術的精神の持ち主でしかありえず、

そうであればこそ、ただの一匹の人間として閲した時にあっても、これという感動のカケラも無いような平々凡々たる人生をば、まるで死んだように生きていたにすぎなかったというワケなのである。

とどのつまり、彼ら「時代の寵児」たちもまた、「金、家族、友人、時間、健康」といった目先のものしか見えず、見ようともしなかった「戦後」に多産せられたクズの極みどもと寸分違わぬ、クズの中のクズと変わりなく、そうであるにも関わらず、まるでまるで「目先のもの以上のものを見ているようにふるまってみせる」という点においてよりいっそうあくどく、汚く、狡猾にして恥知らずな詐欺商法にいそしんだ、「エセ文学者」ならざるはないのである。

そもそも文学とは、小説とは、芸術とは、「不可視かつ不可知の真善美」へのはてしない憧憬によって自ずから沸き起こらざるを得ない、「内なる圧迫」にこそ端を発するものであり、ために真の小説家とは、芸術家とは、クリエイターとは、いついかなる時代の、どんな人生をあてがわれた者であっても、あたかも絶え間ない責苦に苛まれるがごとく、この「内なる重荷」をば、否応なく背負わされた者のことを言うのである。

それゆえに、そういう人間でない部類の人間であればこそ、すなわち「やりつくしてしまった」なる「嘘」をば平気で思いついたり、臆面もなく吐き散らかしたり、本気で信じ込んだりすることのできるというわけで、

だから「セックスがラストフロンティアだ」などいうバカの喧伝に我先に飛びついては、正気に返って見つめてみたらばただただイヤラシイ、キタナラシイ、バカミタイな作品をものしたにすぎぬというのに、その当然の成行きとして人々から敬遠せられ、あるいはバカにせられ、底が見えれば買ってもらえなくなったというのに、しこうして行き着いたその先が「ルサンチマン(悪霊)」に憑りつかれるというザマばかりであったというのに、

そのような負け犬文学や、マトハズレ人生にハクを付けんとして、バカとアホと変態とアダルトチルドレンらが同類相哀れむがごとくのノーベル賞なんぞを授けたり、授かったりしてみせてみたところが――

ああ、もうあまりにも、あまりにも、ちゃんちゃらおかしい…!

洋の東西のいかんに関わらず、「戦後」の三文文士どもによる、現在進行形の生き様死に様たるは、ただただ、衷心の衷心から「クダラナイ」と嘲笑し、「ばーか」とはやしたて、それでも我慢ならないので「この偽預言者野郎が」と罵倒してやるよりほかに、どうしてやろうとふうにも思わせられない。

なぜかとなれば、冒頭の「やれることをやりつくした」という言葉から連想せられるは、「ヨブは語り尽くした」という聖書のシーンでしかないから…!

「ヨブが語り尽くした」その後にこそ、ヨブよりも「若き賢者エリフ」が「霊にはらわたを駆られ」、衷心の衷心から怒りつつ、真実の言葉の数々を語った、

また、その若き賢者エリフの言葉を継ぐようしてこそ、ついには「主なる神」が、やはり怒りのような「嵐の中から」、「知識もないのに言葉を重ねる」ヨブへ向かって、諄々と語りかけたのであった。

いわく、

わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ、

――という口吻を皮切りにして…!


最後に付言しておくが、

この『ヨブ記』についてはなおのこと、わたしはわたし以上にきちんと語ってみせた人間をば、古今東西、人種国籍、有名無名のいかんに関係なく、いまだにもって見たこともなければ聞いたこともなく、見せられ聞かされたことさえ今日ただ今に至るまでありはしない。

「きちんと」という言意とは、たとえばべヘモットやレビヤタンの記述の中にも「イエス・キリスト」の香りを嗅ぎ分け、「キリスト・イエス」の声音を聞き及んだ、という意味である。

であるから、わたしは、無念や残念という思いに感じてかく申すものであって、けっしてけっして、俺様的魂胆を持ってそう主張するものではない。 

俺様的、あるいは僕ちゃん的主張に終始した輩とは、くり返しになるが、「やることはやりつくした」だなどと公言、揚言、確言してはばからなかった「戦後」の欧米作家どもと、その卑しき妾たるにすぎなかった日本の四流文士どもの方であって、

明治大正に生まれた作家を除いたら、「戦後」に活躍した日本の文士の中で、俺様でも僕ちゃんでもなかった小説家など、丸山健二ぐらいしか、わたしは知らない。

その証拠に、丸山健二は、「これまでの文学は浜辺の砂遊びであって、大洋ははてしなく眼前に広がっている」とか、「文学の鉱山は手つかずのまま掘り起こされるのを待っている」とかいうふうに主張し続けている。だから、自分は「あと500年寿命が欲しい」などというふうにも。

真の文学者とは、ひとえにこういう「態度」をした物書きのことを指して言うのであって、これまでの世界の文学史がどうの、フランスのドイツのイギリスのアメリカのロシアの世界文学の文脈がどうのこうの、だから日本の文学はどうのこうのと――そんなクダラナイ、あまりにクダラナイ議論諍論ば戦わせ合っては悦に入っていた(る)ようなバカの極みなんかのことでは、けっしてない。

そんな自慰的、しからずんば弱い物イジメ的ディベートがしからしめた軽薄な、浅薄な、無知蒙昧な喧伝こそ、「やり尽くした」なるルサンチマンな、もはや救いようもないほどルサンチマンな妄念(悪霊)なのだ。


それゆえに――

これまでもうなんどもなんども言って来たし、これからもずっとずっとずっと言わされ続けるのであろうが、宗教もまた同じである。

否、宗教こそもっともミジメにしてマトハズレ、それももはや悪魔の一生のごとくマトハズレな体たらくをば披露し続けてくれちゃって、早四千有余年にまでなってくれちゃってるワケなのである…!

すなわち、民族とか歴史とか伝統とか慣習とか国家とか社会とか政治とか……そんな人間的な、あまりに人間的なシロモノの「部分」がとこの宗教なんぞ、いみじくも誰かの言った「糞土」以外のナニモノでもありはしない。いや、「糞溜」とでも呼び捨ててやったがいい。

なぜとならば、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」というたったひと言によってでさえ、「人の知恵はすべてかえりみるに値しない」という事実を、真実を、真理を、あらゆる宗教はその高慢にして強情な鼻づらに、突きつけられてしまうからだ。いや、今日も明日も永遠に、突きつけられてしまえ…!

それゆえに、ただそれゆえに、わたしはユダヤ教キリスト教(あるいはイスラム教でも仏教でもいいが)のありうる限りの宗派教義神学を鼻で笑い、鼻で笑う以上に足の塵と埃を払い落とし、足の塵と埃を払い落として彼らの「悪しき町々」から離れ去った。

肉的にも霊的にも不可逆的に離れ去って、肉的にも霊的にも永久かつ永世的に離れ去ることによってこそ、「自らを聖別した」。

そうすればこそ、ただそうすればこそ、「我々はすでに救われた」だなどと臆面もなく公言し、すなわち自覚認識見当識の有無に関わらず、心底において「やり尽くした」と恥も知らずに思い込んでいるようなマトハズレな、悪魔の生涯のごとくマトハズレな彼らとは、正確に反対の方角へと導かれていった。

もはやこちらで嫌というほどくり返すものだが、およそ二年前、わたしは霊によってただ霊によって導かれればこそ、アブラハムやロトのような薄情と身勝手の化身みたいな阿呆どもが背を向けて逃げ去った、「ソドムとゴモラ」の跡地へと立ち帰り、瓦礫の底をさまよい歩き、灰燼の底を掘り起こした。

そのように生き、あるいは死ねばこそ、「アブラハムの神」でもなければ「イスラエルの神」もなく、はたまた「全被造物の神」以上の、「わたしの神」と顔と顔を合わせてあいまみえることを得た。

「アブラハムの神」でもなければ「イスラエルの神」もなく、はたまた「全被造物の神」以上の「わたしの神」と顔と顔を合わせてあいまみえることを得ればこそ、わたしは「ヨルダンの向こう側」へ渡ることなく、ただひとり、「楽しき荒野へ」と帰って行った。

「やっぱりお前もヨルダンの向こう側へ渡らせてやろうか」というイエスの言葉に対して「いいえ、行きません」ときっぱり断ればこそ、「イエス・キリストの山」の頂へ登ることを促された。

イエス・キリストの裁きの山」ではなく「キリスト・イエスの慰めと憐れみと山」の頂に登攀すればこそ、ひとり歌い、ひとり踊り、ただひとり、わたしの神を賛美した。

それが、わたしの「ハレルヤ」であり、イエスの「わたしのためだけの微笑」であり、キリストの父なる神とふたりだけで迎えた「永遠の朝」であった。

それが、わたしの「復活」であり、わたしの「」であり、わたしの「永遠の生命」であった。

なぜかとならば、

イエス・キリストこそわたしの神であり、

キリスト・イエスこそ、わたしの復活であり、命であり、永遠の生命あるからだ。


それゆえに、

「やり尽くした」ような文学や、「語り尽くした」ような宗教なんぞに、何ができよう。

そんなゲロか肥溜めみたいな人の浅知恵、わたしの文学でもなければ、わたしの宗教でもありはしない。これまでもそうでなかったように、これからも未来永劫に渡ってそうありうるということがない。

わたしはけっして忘れない――ソドムとゴモラの跡地のこと、楽しき荒野のこと、ピスガの山頂で迎えた朝のこと。……

わたしはただひたぶるに書き続けてゆく。このような生き様と死に様と、そしてなにより「復活の様」とを、これからもずっとずっとずっと書き続けてゆく。

それが、わたしのこの世にあって「負わされた重荷」にして、「やり尽くすことない使命」であるから。……






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