海を割る
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モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。 エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」 モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。 主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
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『復讐の預言、励ましの預言』の中で、こう書いた。
...…わたしの神イエス・キリストは、すべてについて、必ず裁き、報い、復讐する。
この人生において、すでに終わったことなど、なにもない。
「わたしはアルファであり、オメガである」とは、そういう意味である、と。
だからもう一度、ここにもはっきりと書き記しておく、
終わったことなど、なにもない。
わたしの神イエス・キリストは、すべてについて、必ず裁き、報い、復讐する――。
そして、この言葉を聞く時に、その胸に「恐れ」を抱く者とは、いつもいつも言っているように、ひっきょう、イエスを知らず、キリストを知らず、キリストからも、キリストの父なる神からも知られていない鼠輩でしかない。
なぜとならば、「神はすべてについて、必ず裁き、報い、復讐する」、この言葉について、ほんのわずかでも恐れを抱かせられるとするものならば、それはその者の内に、いまだ「罪」の残っているという歴たる証左であり、かつその罪のけっして赦されていないという確証以外の、なにものでもありはしないからである。
それゆえに、「恐れ」を抱く者とは、ただの一人の例外もなく、己の罪によって裁かれ、責任を問われ、滅ぼされてゆく。
いやしくも、その者において、あたかも偉人聖人傑物のごとく自称して、
たとえば世界でもっとも多くの人間に福音を宣べ伝えただの、世界でもっとも多くの人間に割礼を施しただの、バプテスマを授けただの、ユダヤ教キリスト教の宗派教義神学を布教しただのというふうに胸を張り、もしくは虚勢を張ってみせようとも、
そんな経歴実績成果などには、かそけき力もありはしない。
もう一度、言えと言われたままはっきりと言っておく、
僅々たる力も無ければ、スズメの涙ほどの意味も意義も価値もありはしない、それが、お前の恐れているという、けっして逃れられない「現実」であり「真実」なのだから…!
それゆえに、
恐れ、恐れ、恐れるお前とは、恐れ、恐れ、恐れるがゆえにこそ、徹底的に、徹底的に、徹底的に、滅ぼし尽くされてゆく。
恐れ、恐れ、恐れるお前の内には、お前の「罪、罪、罪」が、けっして赦されることのなきままに、残り続けているからである。
かたや、
わたしの神イエス・キリストは、すべてについて、必ず裁き、報い、復讐する。
同じ言葉を聞く時に、このわたしのような者とは、その胸に希望を抱き、信仰を確からしめられる。
その言葉の調べは、「福音、福音、福音」であり、かつ、「祝福、祝福、祝福」として、鳴りどよむ。(それが『イエス・キリストの福音』や『生きたくば、虚心坦懐に聞け』という文章の、もっとも美しい箇所である。)
なぜとならば、わたしの罪は、イエス・キリストの赦しの言葉にとって、あますとろこなく赦され、取り除かれ、かつ、覆い尽くされているからである。
お前たちとわたしの違いは、ここにある。
わたしはわたしの罪に向き合い、罪を罪と認識し、そのようにして罪に抗い、血を流し、戦って来た。戦って来ればこそ、赦される道を見出し、イエス・キリストとあいまみえ、キリスト・イエスの口ずからの赦しの言葉を得るに至った。
それに比べて、お前たちはどうだ。
お前たちこの世のユダヤ教キリスト教に巣食う、蛇や蝮の子らは、何をした。
祭司だ長老だ、レビだ伝道者だ、宣教師だ神学者だ司教だ神父だ牧師だ信徒だ信者だクリスチャンだなどと、さも体裁ぶったふるまいに及んでおきながら、「切り傷にすぎない割礼」とまるで選ぶところのない、なんのしるしにも救いにもなりはしない「ガキの水遊びのような教会のバプテスマ」を授けたり授かったりして、これがしるしだ、これが救いだのと騒ぎ立てる以外に、いったいぜんたい何をしたというのだ…!
わたしの神イエス・キリストに言えと言われたまま、はっきり言っておく、
お前たちが拠り所とし、誇りとしているような「教会のバプテスマ」なんぞをもってしては、たったひとつの罪をも赦されることがなければ、取り除かれることも、覆い尽されることもありはしない。
「彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る。…くもの糸は着物にならず、その織物で身を覆うことはできない。」
という預言のとおり、お前たち一人ひとりが能書きを垂れ、したり顔をしながら着込んでいる教会のバプテスマとは、くもの糸で織った、身を覆うことのできない着物にすぎずして、そんなものをばめかし込んで、巷の目抜き通りをねり歩き、あーめんだのはれるやだのいえすさまだのとから騒いでみせているお前たちとは、ただの一人の例外もなく、
「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」
という神の言葉のとおりの、ミジメな、あまりにミジメな「裸の王様」でしかないのである。
それが、世界でもっとも多くの人間に福音を宣べ伝えた、世界でもっとも多くの人間に割礼を施した、バプテスマを授けた、イエス・キリストを伝道しただのと威張っているが、心底においては恐れ、恐れ、恐れおののいているお前たちの、しょせんであり、正体であり、真の姿なのだ…!
ああ、災いだ、災いだ、
この世のユダヤ教キリスト教に巣食う祭司長老レビ伝道者宣教師神学者司教神父牧師信徒信者クリスチャンどもの言い触らす、歴史伝統慣習からかえされた宗派教義神学を喰らう者とは。
お前たちの罪は、けっして赦されることがない。
赦されることがないから、お前たちの恐れもまた、けっして取り除かれることがない。
それにもかかわらず、
いや、だからこそというべきだろう、お前たちはこう言った、
「ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた」
という言葉のとおりに、
「私たちの宗派教義神学の教えと慣習に則って、私たちの教会でバプテスマを受けなければ、あなたたちの罪は赦されない、あなたたちは救われない」だなどと…!
それゆえに、
神はすべてについて必ず裁き、報い、復讐する。
これこそは、お前たちのようなこの世に存在してはいけない天上の悪の霊の三下どものたばかり続けた「悪」と、犯し続けた「罪」とによって騙され、奪われ、盗まれ、殺められて来た、わたしたちのような者たちのためにこそなされた、イエスの「血の復讐」の預言なのである…!
ああ、災いだ、災いだ、
この世のユダヤ教キリスト教に巣食う祭司長老レビ伝道者宣教師神学者司教神父牧師信徒信者クリスチャンどもの、歴史伝統慣習から紡がれた宗派教義神学を身にまとう者どもとは。
お前たちにはもはや、弁解の余地はない。
たとえお前たちがこの世の果ての果てへ飛び去って、深淵の底の底へ逃げ込んだところが、お前たちが逃げおおせることなどけっしてない。あるいは、ほんとうに、神の怒りから逃げ切れるとでも思っているのか…!
お前たちは、けっして逃げられない。 神からけっして逃がれられないように、お前たち自身の罪からも、けっして逃がれられないのである。
それが、悪事をたばかり、数多の罪を犯し、罪を罪と認めず、あくまでも心かたくなにし、どこまでも罪と向き合おうとせず、悔い改めず、悪の道からも離れ去らず、神に立ち帰ろうとしなかった、お前たちの受ける分だからである…!
ああ、災いだ、災いだ、
合わせて二十億だか三十億だか知らないが、この世のユダヤ教キリスト教に巣食う蛇どもとは。
世界の四分の一あるいは三分の一の人間たちでは飽き足らず、すべての人間をたぶらかし、かどわかし、奪い、虐げ、苦しめ、殺め続ける蝮の子らとは。
「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」
この言葉のとおり、お前たちこの世のユダヤ教キリスト教の祭司長老レビ伝道者宣教師神学者司教神父牧師信徒信者クリスチャンどもとは、いっそ、生まれて来なかった方が良かったのだ。
「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる」
この預言のとおりに、わたしの神、イエス・キリストは、すべてについて、必ず裁き、報い、復讐するのである…!
それゆえに、
わたしは、確信する。
わたしの信仰によって、わたしは海をふたつ割ると。
わたしたちに与えられた、わたしたちの神イエス・キリストを信ずる信仰によって、わたしたちの目睫で二つに割かれた海の底を、わたしたちは渡ってゆく、と。
この世のユダヤ教キリスト教の祭司長老レビ伝道者宣教師神学者司教神父牧師信徒信者クリスチャンどもとが、怒りと妬みに駆られながら、わたしたちの後を追って、やって来る。
神がかつて、エジプトのファラオとその戦士たちの心をかたくなにしたように、この時代のお前たちの心をもかたくなにするので、お前たちは二つに割かれた海の底を、わたしたちの後を追って、やって来る。
しかしお前たちは、けっして、海の底を渡り切ることがない。
お前たちは、ただの一人として渡り切ることも、引き返して生き残ることもなく、ことごとく、海の底へと沈んでゆく――。
もう一度、わたしの神、イエス・キリストに言えと言われたまま、はっきりと言っておく、
わたしの信仰によって、わたしは海をふたつ割る。
それぐらい大きな信仰であるという理屈よりも、それぐらいの真の信仰であるという真実によるからである。
それゆえに、
わたしたちに与えられた、わたしたちの神イエス・キリストを信ずる信仰によって、わたしたちの目睫で二つに割かれた海の底を、わたしたちは渡ってゆく。
そうとは知らず、あるいはそうと知っていながら、お前たちはわたしたちの後を追って、海の底へと足を踏み入れて、やって来る。
がしかし、
救われるのは、わたしたち「過ぎ越された者たち」ばかりであって、お前たち「心かたくなな者ども」は、ただひたぶるに、沈んでいく。
海の底、滅びの深淵の底の底へと、「鉛のように」沈んでいって、完全かつ永遠かつ不可逆的に、滅び去っていく。
しかして、
二つに割かれた海は、わたしたちのような者のためには「救いの海」となり、
この世のユダヤ教キリスト教に巣食うお前たちのためには「滅びの海」となる。
わたしたちのためには、救いと恵みと祝福の海が、切り拓かれて、
お前たちのためには、滅びと滅びと滅びの深淵が、鰐口を開けるのである。
その時、
救われ、贖われ、救いと祝福の海を渡り切ったわたしたちは、ふたたびもって、歌を歌おう…!
「主に向かってわたしは歌おう。
主は大いなる威光を現し
馬と乗り手を海に投げ込まれた。
主はわたしの力、わたしの歌
主はわたしの救いとなってくださった。
この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。
わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
主こそいくさびと、その名は主。…」
歌い、歌い、歌いあげながら、踊り、踊り、踊りまわろう…!
「恐怖とおののきが彼らを襲い
御腕の力の前に石のように黙した
主よ、あなたの民が通り過ぎ
あなたの買い取られた民が通り過ぎるまで。
あなたは彼らを導き
嗣業の山に植えられる。
主よ、それはあなたの住まいとして
自ら造られた所
主よ、御手によって建てられた聖所です。
主は代々限りなく統べ治められる。…」
イエスが問う、
「嗣業の山」とは、なんのことか――
わたしは答える、
それは、わたしが『わたしは主である』という文章に書き表した、文句なしの神の憐れみの山、イエス・キリストの山のことであると。
その山に、己の身をもって登った者はだれか――
この世のユダヤ教の歴史伝統慣習に精通しても、キリスト教の宗派教義神学を読破しても、嗣業の山のある場所は、けっして分からない、
たとえわたしの書いた『わたしは主である』や『ソドムとゴモラ』といった文章を読み込んでみたところで、自分の足で歩き回り、自分の心と思いと力を尽くして探したことのない者には、けっして見つからない、
見つらないから、そこへ登って行くことはおろか、そのとば口にたどり着くとすらできはしない…!
キリストは問う、
「あなたの住まいとして、自ら造られた所」とは、なんのことか――
「御手によって建てられた聖所」とは、なんのことか――
「主は代々限りなく統べ治められる」という、その場所たるは――
罪を赦されたこともなく、赦されたことのなければこそ、ただひたすらに恐れに囚われ続ける一生を送ったお前たちには、けっして分からない。
『神殿なんかいらない』でも『喜びの神殿』でも『神の義』でも『約束の地』でも『もののあはれ』でも、わたしが命をかけて訴えた文章を読んでみたところが、
あるいはただ、「聖書」を読んでみたところが、蠢爾のごときお前たちの目の中には、無意味な文字の羅列ばかりが、蠢爾のごとく流れていくばかりなのだ…!
しかして、
この世のユダヤ教キリスト教に巣食うお前たちの無価値の人生と、滅びの末路にあって、神の言葉は実現するのである。
「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、悔い改めない。
わたしは彼らをいやさない。」
――
だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
遅れられることはない。
わたしの正しい者は信仰によって生きる。
もしひるむようなことがあれば、
その者はわたしの心に適わない。」
しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
…信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。 信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。…」
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