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父の話

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父は何も語らなかったが、多分語るに足る人生を生きていた
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父の話(7)

父の話(7)

父は宮崎の泉ヶ丘高校という、そこそこ優秀な学校に入学した。
在学中は演劇部、さすがに大学までは行かせてもらえず、、卒業後は郵便局員となった。

当時の郵政職員は、入局にあたり郵政研修所と言われる施設で教育を受けたのだが、生前、父はこの研修所を最終学歴だと言い張っていた。
明らかにおかしな言い分なのだが、それが父のプライドだったのかも知れない。多分父は大学に進みたかったのだ。
内心忸怩たるものがあっ

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父の話(6)

父の話(6)

父は酔うとたまに九州弁を話した。
望まぬことではあったが、東京の小学生も、少しずつ鹿児島での暮らしにも慣れていったのだと思う。
そういえば酒も芋焼酎を好んだ。
後述するが、成人してすぐに九州から出ていったにもかかわらず、九州人としてのアイデンティティは育んでいたようだ。

ともかく父は、中学まではなんとか祖父の庇護を受けていた。

ところが父を鹿児島に呼んで5年もすると、祖父はまた彼を養子に出すと

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父の話(5)

父の話(5)

さすがの祖父も、いつまでも子どもをほったらかしというわけにいかなかったのだろう、1年ほどで父は祖父のいた鹿児島に引き取られた。
小さな畑をやってその日暮らしをしていたらしい。
祖父はそこからもう東京にもどることはなく、実業家として再起することもなかった。

この時、父は小学校の5年かそこらであったわけだが、東京のお坊ちゃんが、九州、鹿児島の財部町という、僻地にやって来て、その文化的ギャップは、想像

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父の話(4)

父の話(4)

子どものころ父に連れられて、渋谷駅からしばらく歩いたところに、Uさんというお婆さんを訪ねたことがある。
あれはいま思うと、松濤あたりだったろうか。
Uさんはにこにこと歓迎してくれて、外皮を剥いたまま、ガビガビに乾いた蜜柑をすすめてくれた。

東京で没落した祖父は、結局故郷の鹿児島に戻る。
そのさい別宅の子どもたちは、ある者は養子に出され、ある者は他人に預けられたりしたらしい。

兄弟姉妹は離散した

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父の話(3)

父の話(3)

少なくとも昭和16年、戦争が始まるまでは、父は穏やかに暮らしていたらしい。

わたしが父親から聞いた、そのころの数少ない思い出話のひとつが、近所の悪いお兄さんにいわれて、本宅からタバコを持ち出して怒られた、というものである。
もしかしたら、少しいいとこの坊ちゃんくらいの扱いはされていたのかもしれない。
少なくとも食うに困らない環境と、優しい母と仲の良い兄弟姉妹がいた。

余談ながら、父はこのころに

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父の話(2)

父の話(2)

父は妾の子であった。

常々それを公言していたわけではない。
むしろ子どもたちに対して、自分の家族の話しをすることはほとんどなかった。
ただ、他人にはそうでもなかったらしく、父が自分が連れてきた客に対して、さほど重い感じでもなく、自分は妾の子だと話すのを聞いたことがある。

妾なんて令和にはなかなか聞かない言葉だが、父の生まれたのは昭和12年だ。
世の中の常識はだいぶ違っていたのだろう。

父の父

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父の話(1)

父の話(1)

先だって母が亡くなった。
勢いで写真をSNSにのせたら、お前によく似ているとコメントがついた。
だがしかし、そうではない。
わたしが本当に似ているのは、多分父の方なのだ。

父は母より1年若かったが、10年早く亡くなった。
ボケてしまったけれども、体は最後まで健康で、本当の意味での老衰であった母と違って、父は不摂生のデパートみたいな人だった。

糖尿をこじらせて、脳梗塞と心筋梗塞をほぼ同時に発症す

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