父の話(4)
子どものころ父に連れられて、渋谷駅からしばらく歩いたところに、Uさんというお婆さんを訪ねたことがある。
あれはいま思うと、松濤あたりだったろうか。
Uさんはにこにこと歓迎してくれて、外皮を剥いたまま、ガビガビに乾いた蜜柑をすすめてくれた。
東京で没落した祖父は、結局故郷の鹿児島に戻る。
そのさい別宅の子どもたちは、ある者は養子に出され、ある者は他人に預けられたりしたらしい。
兄弟姉妹は離散したのである。
これは大げさではなくて、昭和47、8年になって、養子に出された姉のひとりが新聞に訪ね人の広告を出し、父との再会をはたしている。
その時には、別の姉は進駐軍としてやってきたアメリカ人と結婚して、渡米して日本にいなかった。
そして長兄は、雑司ヶ谷近くの祖母の墓石の横で、首を吊って自死していたのである。
とはいえ、父の境遇はまだましだったのかもしれない。
父は祖父の友人の、渋谷の医者の家に、ひとりで預けられた。
それが前出のUさん夫妻である。
ほとんど置き去りといってもいい状況だったが、この夫婦は父を可愛がってくれたようだ。
子どもがいなかったUさんは、父を養子にとることこそしなかったが、いよいよ年をとって、夫に先立たれたあとは、父の子どもの一人(つまりわたしだが)をもらい受けて、渋谷の家屋敷を継がせることも考えていたようだ。
あの記憶の日は、もしかしたらそんな話をしにいったのかもしれない。
結局わたしが養子に出される前にUさんは亡くなり、父が葬式を出した。
家屋敷はすべてが終わったあと、どこからともなく現れた遠い親戚が相続したという。