神原いつお
不世出の批評家、福田恆存の思想を読みなおし、系統的に再構成する試み。それは狭義の哲学や形而上学にとどまらず、まさしく文学的な新たな体系化として開示される。
「二つの自由概念」 アイザィア・バーリン「二つの自由概念」という、おそらく現代自由論の古典に数えられる論文がある。現在ではあまり言及されることもなくなったが、福田恆存が活動していた当時、広く読まれ、さかんに論及されていた。 バーリンはその中で、題名が示すように「自由」の概念を二つに分けていて、そこが注目を集めた理由である。この分類法はいまだにしばしばもちだされるのだが、一つは消極的自由、もう一つは積極的自由と定義されている。前者は「××からの自由」 後者は「××への自
自由とは何か――個人がやりたいことをやりたいようにやることと、端的にいえるだろう。それなら、勝手気儘とどこがちがうのか。そこに確たる解答をあたえるのは意外にむつかしい。だが一つだけ確認しておきたいことは、自由の要求はエゴイズムから発するものであるという事実である。 どちらにしても「自由」は、いまや空気のようなものに感じられるかもしれないが、歴史的に苦労して獲得されてきたものであり、いまもなおその拡張をめざす戦いは日々継続されているのである。 近代的自由の歴史性 近代
「三島由紀夫・生と死」をアップしてから、いくつかの「苦情」があった。 大きく分けて三つ。 まず一つは、お前の批評は情け容赦なさすぎて、たんに三島由紀夫を「ディス」っているだけだというもの。 もう一つは、文学とは倫理的なものでなくてはならないのか、という疑問ないし反論。 最後の一つは、三島の自決の謎について言及のないこと。 まず第一点から弁明すると、口が悪いのは私の大きな欠点であり、たいへん申し訳ない。実生活でもいつも怒られる。しかも一冊の本を要する天才作家を二十
前回の福田恆存を体系化するで、私は三島由紀夫がみずからの戦後を「余生」と表現したことにふれた。かれの同級生の多くが学徒出陣であるいは命を落とし、あるいは悲惨な不条理にさらされたのである。兵役につかなかった三島もまた、戦後派の作家たちと同様に、そこに「後ろめたさ」を感じていた。 だいぶ前に、福田恆存と三島由紀夫「暗渠論争」についても書いたのだが、ノートのダッシュボードを見ると、私の書いたものにしては、非常に広く読まれている。だがそれは、三島の死について言及しながら、まことに
われわれの「エゴイズム」 まず引用からはじめよう。 「ある作品」とは、おそらく野間宏の「顔の中の赤い月」だろう。だがそれはたいした問題ではない。 というのも、「戦後派」といわれた人たちの作品は、その代表作とされる大岡昇平の「俘虜記」にしても、たいていみんな同じ角度からエゴイズムを取り扱っているからだ。かれらにしてみれば、戦後に生き残っていること自体が、いくばくかの後ろめたさを強いるものであり、そうした社会心理状況が、テイラーのいう「歴史的想像」としてたしかに実在し、共有さ
エゴイズムの起源について エゴイズムとは私的利益の追求である。あるいは、みずからの快楽をみたそうとする欲動であると、いちおうそういえる。それ自体になにも悪いところはない。ところがエゴイズム同士は角逐する。私の私的利益の追求が他者のそれと衝突することが、しばしば起こる。というか、それだからこそ、エゴイズムは人間的課題となる。概念としてのエゴイズムには、他我との軋轢があらかじめ想定されたものとして含まれているのだ。 私が静かに読書にいそしんでいるのに、隣の部屋からヘビーメタ
前回を書き終わったところで、人からすすめられて、斉藤幸平『人新世の「資本論」』を読んだ。かれのいうには、君がいっていた現状分析がもっと詳細に「科学的」に分析されている、と。 うかつにも、こういうベストセラーがあることを私は知らなかった。著者は気鋭のマルキストで、資本主義のもたらす気候変動と格差社会が人類最大の危機につながると訴えている。 なるほど読んでみると、現状分析は同感だし、教えられる事も多い。後期マクルスの知見などは、ニュースクールならではのものだ。描かれている切
どなたもご存じのこととおもうが、カントには物議をかもした『嘘論文』とよばれるものがある。 命を狙われている友をかくまう。そこに殺人者がやって来て戸口でかれに問う、この家に友はいるのか、と。そうした状況でも、嘘をついてはならないと、カントはいう。 「嘘をついてはならない」というのは、いわゆる「定言命法」とよばれるもので、いかなる場合においても守られなければならないとカントは主張する。例外を認めてしまえば、定言命法はその意味を消失するからだ。「嘘も方便」は道徳秩序そのものを
この一連の文章を読んだ友人からクレームがついた。 福田恆存を体系化するといいながら、おまえさんは自分のいいたいことを勝手にいっているだけじゃないか、というのだ。つまり、福田恆存をダシにして自己を語っている、と。 それについては、批評とはそういうものだ、と答えるしかない。ひらきなおる訳ではなく、結果的にそうなるのだ。私は福田恆存に真摯に向き合い、立ち位置を決め、そこで生じたものを語るほかない。 それでも、かれとの距離はわきまえているつもりだ。私は予断をすてて、福田恆存に
時間について 前節において私は、福田恆存の思索における根本的現実について語った。しかし、そこにはまだふれられていない困難な問題がのこされている。 ――それは、「時間」だ。根本的現実に時間はどうかかわっているのか。 福田恆存は時間の問題についてどう考えていたのか。 それについては「処世術から宗教まで」と題する講演のなかで語られているエピソードが、ちょうどいい入口となる。 挿話の舞台は当時世論が沸騰していたとおもわれるロッキード事件だ。 主人公・田中角栄は、ご存じのよ
根本的現実とは何か さてここで、これまでの「体系化」をいったん手みぢかに整理しておこうとおもう。 というのも、この節から、福田恆存の思想の体系化における最も重要なポイントを明瞭にすることになるからだ。 それは近代を超越せんとする福田恆存の思想的営為の核となるものを摘出することを意味している。 私は、特定の状況のなかで一つの視点をとらされている。事物はすべて私のパースペクティヴの内部にあらわれる。私はその外部に出ることもできないし、それを他者と交換することもで
存在の夜 人は夜になると眠りにつく。白昼の喧騒から身を引き離して一人になる。視界は遮断され、人は自分だけの世界に浸る。眠りは死とつながっている。死ほど、人間が自分だけの世界に生きていることを思い知らせるものはないからだ。 しかし白昼の世界においても、わずかな時間、人は自分だけの世界にひたることがある。きっかけは、たとえば世間で広くいわれていることに流されて惰性で生きていることが、個人として何らかの障害となったとき。社会の慣習とのあいだに軋轢を生んだとき。他者の理不尽な要
私は、私にあたえられた世界の中心にいる。むろん、あなたもあなたにあたえられた世界の中心にいる。そしてそれらはそれぞれ、独自のパースペクティヴをなして、たがいを包みこんでいる。 パースペクテイヴには、個人の次元と共生の次元が開けている。福田恆存の用語でいうと、「個人的自我」と「集団的自我」である。しかし両者を分離してとりだすことはできない。このことは、いくら強調してもしたりないくらいの重要性をおびている。この点について、福田恆存は小林秀雄論のなかで、秀逸なレトリックをもちい
福田恆存とD・H・ロレンス ロレンスとの関係性は、いろんな人が書いているし、ここまで書いてきたこととダブルのでスルーしようと考えていたが、そうもいかないようなので、いちおう書いておくことにする。それというのも、みなさんが書いているのと、私の考えとでは、いくぶん違うようなのである。 のみならず、どれもロレンスからの影響については解説されているのだけれども、どういうわけか、両者の相違についてはなにも語られてはいない。それでは、片手落ちというものだ。 福田恆存はロレンスからの
私小説的現実について 「内発的自己」と「外発的自己」にはとほうもない落差が存在することがわかっていただけたとおもう。 私は「内発的自己」である日本的なるものについて、あえて否定面ばかりを強調した。それは、福田恆存の言葉にあるように、「おもりを重くしなくては、翼は強くならぬ」からだ。 もちろん、「外発的自己」にも否定面はある。しかしそれは、実践ののちに明らかになることだ。とにかく「内発的自己」を「外発的自己」に噛み合わせる――それが、真の自己否定であり、日本文化のうちに決
前節では、福田恆存における「外発的自己」について検討した。 それならば「内発的自己」とは何か。 「大祓」によれば、古代日本では、罪は天つ罪と国つ罪に分類されている。天つ罪は、田をけがし水路を破壊するなどの農作業を阻害する行為にたいするものであり、国つ罪は、殺人、傷害、姦淫、その他、驚くべきことに皮膚病などの病気も含まれる。 どの解説書にも、天つ罪は天上においてスサノオが犯した罪であるからそう呼ばれるのであって、国つ罪のとの上下関係はないとされている。しかし私にはそうは