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福田恆存を勝手に体系化する。11   個人的自我と大自然 神 

存在の夜


 人は夜になると眠りにつく。白昼の喧騒から身を引き離して一人になる。視界は遮断され、人は自分だけの世界に浸る。眠りは死とつながっている。死ほど、人間が自分だけの世界に生きていることを思い知らせるものはないからだ。

 しかし白昼の世界においても、わずかな時間、人は自分だけの世界にひたることがある。きっかけは、たとえば世間で広くいわれていることに流されて惰性で生きていることが、個人として何らかの障害となったとき。社会の慣習とのあいだに軋轢を生んだとき。他者の理不尽な要求に遭遇したとき、すばらしい芸術にふれたとき、などなど。

 そのとき私は視線を反転させ、自己を見つめようとする。外部からの刺激をいったん遮断して、自分の内部にひきこもるのである。世間でいわれていることが真実かどうか、またはそれが私自身と一致するものなのかどうか、はじめて懐疑の目で外部の事象を見直す。

 集団から切り離された個人は、そこではじめて逃れようのない孤独とその帰結である自己自身の存在の不安定性に気づかされ、その事実に突き放される。昼間の世界では覆われかくされていた人間存在の脆弱性が決定的にあらわになるのだ。
 個人の自覚において人ははじめて、集団に対置されたみずからの存在のたあいなさに愕然とする。それだけではない、その社会というものもまた、その強力な作用と圧力に比して、存立の基盤は意外にあやふやなものであることを知る。社会もまた、自然の前では脆弱性を露呈する。とすれば、私という存在はこの世界でまことにちっぽけな実在である。

 人は孤独になることで、自分が大自然の一単位であることを自覚する。主体的に生きているはずが、それ以上に、生かされているという事実におもいいたる。

 こうしたとき、福田恆存は「大自然」という言葉の背後に「神」を暗示するのが常である。ともすると、神=自然と誤解しかねないところがある。しかしながら、それはかれが絶対者というものに馴染みのないわが国の読者を相手にしているからで、厳密には、「大自然」と「神」は截然と区別される。かれが「個人的自我の背後には大自然がひかえている」というとき、そうしたふくみをもたせているということをわれわれは考慮にいれておく必要がある。

 自然はさまざまな機会をとらえて、人間に影響をおよぼす。大なるは、台風や地震のような災害から、小なるは虫歯の痛みまで。もちろん、悪いことばかりではない。というか、人間はそれ以上に、自然からかぎりない恩恵をうけ、自然の力によって生かされている。もし太陽がなければ、大気がなければ、海がなければ、その他あらゆる自然物がなければ、われわれの生命は一瞬も維持されない。

 そうした物理的なものばかりではない。人間が生みだしてきたあらゆる技術は、思想や芸術をもふくめて、自然からの恩恵にあずかっているのだ。この問題について、福田恆存は「文学以前」という連載において追求するのだが、かれの率いていた劇団雲の内紛のせいで、惜しくも三回で中断し、そのまま放棄された。まことに惜しいことである。

 内容は、アリストテレスの形而上学を手掛かりとして、人間の技術的側面から、存在の本質せまらんとするもので、もし完成していたら、『批評家の手帖』以来の「主著」となるはずだったに相違ない。

 かれが何をめざしていたのか、現存している部分から推測するほかないのだが、それは近代芸術論の反駁とはべつに、第一に、自然を対象化し人間と分離する近代的自然観にたいする異議、第二に、その近代的な思考からみられたギリシャ思想解釈が誤解にもとづいていることの解明、第三に、その結果として得られる人間と世界との真の関係性を明らかにすること、の三つである。つまり、福田恆存にはめずらしく、純然たる哲学的・思想史的主題が追求されるはずだったのだ。おそらく、プラトンのいう「徳」もまた、技術的なものであるということを明らかにする予定だったのではないか、と私は想像する。

 福田恆存はまず、「技術は自然を模倣する」という、『自然学』におけるアリストテレスの言葉を端緒として論をすすめる。そこでとらえられている自然は、科学の対象となる物質としてではなく、「盲目の意志」としての自然である。したがって技術と自然は対立するものではない。
「いや、さう言つたのではまだ足りない、アリストテレスは自然そのもののうちに技術を、或いは技術的なるものを観てゐる様に思はれます」(「文学以前 三」)

 そして『気象学』から次のような事例を引用している。
 料理という技術は、動物がものを食べる仕組みを模倣したものだと、アリストテレスはいう。すなわち、ものを噛み、唾液を加え、胃のなかで加熱するという人体の仕組みは、素材を包丁で切り、調味料を加え、焼いたり煮たりするという技術に投影されているというのである。

 そういえば、日本酒の起源は、土器のなかの米に唾液が混入したことから始まると、私は聞いている。偶然に発酵してできた汁をうまいと感じた古代人は、今度は米汁に唾液を加えて、人為的につくるようになる。そこから日本の酒造りは、発酵という自然作用を真似ることで試行錯誤をくりかえし、発展してきた。それを福田恆存は、自然はもともと酒をつくる技術を有しており、人間がそれを模倣したと解釈するわけである。

 そのあとに福田恆存は、なんと、マルクスの『資本論』の一節を引用する。アリストテレスの自然学と似ているとかれはいうのである。だがかれの意図は、類似している点にあるのではなく、似ていない部分に照明をあてることにある。途中まで似ているからこそ、両者の決定的な差異が――どこですれ違っているのか、理解を得られやすいからである。
 それはつまり、ギリシャ的思惟と近代的思惟の根本的差異である。

 マルクスの考へてゐた事は、自然科学の因果関係を社会科学にも適用し、それを人間の目的実現の技術として法則化する事だつたのでせう。ただ問題なのは、その目的が、それまで折角自然科学的推論を重ねて来たのに、途中で急に天降り式に人間の頭に棲み込んでしまふといふ点です。随つて、そこには模倣の入り込む余地は全く無い。目的が人間の側に、内部にあるのですから、自然界のすべてが人間に奉仕し、人間に役立つものとして存在する。私にとつて気になるのは、この人間万歳の思想であります。
                   

「文学以前(三)」

 ここは非常に重要な点である。私はここまで、福田恆存の近代的思考にたいする根本的な批判について縷々、語って来たのだが、その根底にあるのは、きわめて倫理的な動機であるということが、ここで明らかになったのである。どうやらかれは、古代ギリシャと近代の自然観を対比することで、近代的思惟に巣食う問題を浮かびあがらせようとしているようだ。

 ちなみにオルテガにも『技術論』という、示唆に富んだ著書がある。
 オルテガはまず、動物と人間のちがいについて語る。動物はつねに外界に気を取られ、戦々恐々としているのに対して、人間は一時的に外界からの刺激をシャットアウトして、自己に引き籠ることができる。たとえば、なにか音がすると動物はそれに即座に反応し行動する。ところが人間は、それが何の音であるか推測する余裕をもつのである。判断と行動を保留し、思考するのだ。
 そこから人間は革命的な進歩をとげる。動物は腹が減るとすぐに捕食物をさがすのだが、人間はその行為をいったん停止させ、獲物をとるために弓矢や槍をつくる。あるいは種を植えて、畑をつくる。いうまでもなく、獲物を狩ることと、武器をつくることはまったくべつの行為である。木の実や野菜を食べることと、畑を耕すこともまた、ぜんぜんちがった段階の行動である。そのような迂回路を通ることで、あてどもなく獲物をさがすのではなく、効率的に食物を供給することができる。それは人間だけが達成した高次の行動様式であり、ここに技術の起源があると、オルテガはいっている。
 そしてその効率性は、人間の生活に余白をつくる。技術はその日暮らしの生活から人間を解放する。その余白が人間に思考に費やす時間をあたえ、さらに高次の段階へとすすむ。ざっとこういう趣旨である。

「技術論」は機知にとんだ明晰な論文で、技術について考えるにあたって、かならず参照すべきものであると、私は考える。ただ、オルテガもまた、福田恆存と同じく、デカルト以来の観念論を超克することをみずからの使命とこころえている哲学者ではあるが、それでもどこか、マルクスと同様に、自然を物質として対象化する心性が残滓としてある。しかも、オルテガにしても、マルクスにしても、かれらの技術観には倫理的動機などかけらもない。それは決定的な相違である。

 古代ギリシャにおける「自然」は、人間と対立するものではない。人間もまたその一部であり、同じ原理――すなわち、ロゴスによって統御される。自然の本質は不変不動の存在であるというエレア的な確信が古代ギリシャ人にはあった。それはかれらの思考における根底をなしていた。だから、かれらは目の前にある事物の実在性に懐疑を抱くなどということは、夢にも考えなかったのだ。それら事物は確実に実在し、それぞれ「存在」あるいは「ロゴス」をもっているという集団的合意が、暗黙の前提としてふくまれていたのである。ターレスからアリストテレスまで、そこは変わらない。古代ギリシャ人は、近代以降のわれわれとはまったく違う世界を見ていたのである。

 だが福田恆存はエレア的ではないし、そこに回帰しようというのでもない。自然を不動の一義的なものであると考えているわけではないのだ。またいうまでもなく、自然を人間が改変し利用しうる素材とみなす近代的自然観をも真っ向から攻撃する。

 福田恆存がアリストテレスにならって「技術は自然を模倣する」とのべているのは、自然を素材とみなす科学技術の源泉は自然そのものの中にあるのであって、自然を技術のたんなる対象と措定すること自体が、破滅的な背理をきたしていると考えられているからだ。人間は哲学的思惟や科学技術をもふくめて、自然に包摂される存在である。そこを無視していることから、「人間万歳の思想」であるといわれている。

 人間万歳の思想の恐ろしいのは、片や労働者万歳と片や資本家万歳を生み出す処にあるのではなく、この二つの集団を細分すれば、必ず個人万歳の思想に転化せざるを得ぬといふ処にあるのです。

「文学以前(三)」

 つまり、「人間万歳」思想のいちばんの急所は、自己のエゴイズムを抑制する契機をなんら含んではいないというところにある。強者の自己正当化も、弱者の自己憐憫も、ひとしなみに否定しうる確固たる根拠を持ってはいないのだ。

 自然を「教師」であると、福田恆存はいっている。それはむろん、権威ある尊敬すべき教師という意味だ。学生と同じ目線をよしとする今ふうの教師ではない。なぜなら、自然は超然としている。こちらに歩み寄ってはくれない。人間の方から教えを乞う必要がある。

 自然は私たちに忍耐を教へ、勇気を教へ、深切を教へる。思ひやりや愛情を教へる。また時には冷酷になれと教へ、厳しくなれと教へる。草木や山や河や、雪や嵐や、その他、自然現象のすべてが季節の転変を通じて、私達に絶えず道徳教育を施してゐるのだ。                     

「自然の教育」

 つまり、自然はわれわれのエゴイズムを抑える存在者である。そこに依怙贔屓はない。金持ちの屋敷にも貧乏人のあばら家にも津波は押し寄せる。悪人だけでなく、善人も雷に打たれる。教会や寺社だって、地震によって倒壊する。あるいは、殺人者の庭にも桜は咲く。人間の価値観や理屈など、はなから相手にされてはいない。それでいて、われわれにはかりしれない恩恵もあたえてくれる。地震や洪水で荒廃した土地にも、春になれば草花が芽をだし、動物や虫が活動をはじめる。沈黙は拒絶ではなく、許容の形式なのだ。

 われわれが抱いている正義感や倫理観は、それがどのようなものであれ、自然の前ではまったく通用しない。それらは結局、かたちを変えたエゴイズムにすぎぬことをわれわれに教えてくれる、福田恆存はそういっているのだとおもう。自然が「絶えず道徳教育を施してゐる」というのは、そういう意味である。
 自然は個人的自我に人間の脆弱性、不完全性を開示する。そしてわれわれは、生命という絶対的に個別なものを絆として、大自然とかたく結ばれていることを悟る。人間はあくまで自然の断片にすぎない。大自然は個人的自我の背後にあって、深いところでわれわれを突き動かしている。

 そしてそのさらに背後に、福田恆存は神の大いなる影を感じとる。教師としての自然、人間のいとなみを相対化し、その主張をことごとく拒絶し、われわれを無言のうちに包みこむ自然。大自然が見せるさまざまな表情は神による表現なのだ。
 人間は個人的自我の場において自然と対峙することで、断片としての自己と全体としての絶対者を、認識するのでも、理解するのでもなく、ただ実感する。
 かれは講演の中で冗談めかして、こういっていた。

 友人の遠藤周作君が『沈黙』なんていふのを書いた、神が沈黙したといふけど、神様は沈黙してるのが商売じゃないか――商売といふとをかしいけれども、仕事じゃないかと思ふんです。                  

「処世術から宗教まで」

 福田恆存の神は、助けをもとめても手をさしだしてはくれない。まして現世利益なんてありえない。そういうものをかれは神とは認めないのである。人間の論理など、てんで問題にしない。それが神の「商売」だ。とはいえ、べつだん現世利益をもとめる庶民の信仰を頭から否定するわけではない。脳裡に理想を宿したものだけが、沈黙の神の翳を追うのである。そうでない人にはまたべつの生き方があると、かれはいう。

 いずれにしろ、福田恆存が全力を尽くし、身をくねらせるようにして、あらゆる角度から近代思想とその認識論、存在論、自然観等々に異を唱えてきたのは、なにもそれらの論理的な誤謬を指摘して新たな体系をたてるためではなく、あくまでも倫理的な動機がもとになっているということなのだ。

 福田恆存の世界観はアインシュタインの相対性理論と近接するところがあると私はいったし、そしてそれは事実ではあるが、アインシュタインが宇宙の物理的構造を解明することを目標としていたのに対して、福田恆存はひとえに人間が「生きる」ということを目的としている。そこで問われているのは知識ではなく、行動なのである。体系ではなく倫理なのだ。世俗の道徳ではなく、相対的な人間の境位と垂直に交差する倫理のありかただ。

福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。