見出し画像

福田恆存をを勝手に体系化する。16  ヒューマニズムとエゴイズム   


われわれの「エゴイズム」

 まず引用からはじめよう。

 ある作品のなかで、行軍中に肉体の弱つた戦友がたふれるのをそのまま見すごしてゆく場面が描かれてゐる。それが作品のうちでひとつのクライマックスを形づくつてゐる。ぼくは無心に読みすごしえなかつた。
 なにかまちがつてゐる。なにかがはきちがへられてゐる――ことに読者がこの箇所を戦後文学の一表情として感動する危険のあることをおもへば。ぼくにいはせれば、そんなことは深刻でもなんでもないことだ。ごくあたりまへのことであり、そんなことはとくに承知のうへで、文学の領域はそのさきからはじまるのではなかつたか。
中略
 なぜなら、それはたんなる肉体的事実にすぎぬものであり、もうどうにもならないからだ。たしかになにかがはきちがえられてゐる。ぼくたちは、そこに人間性の深みがとらへられてゐると考へてもならぬし、またそこをモメントとして自己完成への意図が展開されてゐると見なしてもならぬ。さういふことをいひだすならば、友人の溺死をょよそに自分だけが助からうとした、古めかしい個人主義者志賀直哉のはうが数段たちまさつてゐる。すくなくともかれは、さういふ心理的事実に深刻を見ることだけはしなかつたからだ。
 もちろん、無茶なないものねだりも若さだとはいへる。が、あのやうな次元でエゴイズムを問題にしてはいけない。あんなことはなんの意味もない、つまらぬことだ。人間観察の深さとはぜつたいに無関係である。

「否定の精神」

「ある作品」とは、おそらく野間宏の「顔の中の赤い月」だろう。だがそれはたいした問題ではない。
 というのも、「戦後派」といわれた人たちの作品は、その代表作とされる大岡昇平の「俘虜記」にしても、たいていみんな同じ角度からエゴイズムを取り扱っているからだ。かれらにしてみれば、戦後に生き残っていること自体が、いくばくかの後ろめたさを強いるものであり、そうした社会心理状況が、テイラーのいう「歴史的想像」としてたしかに実在し、共有されていたのである。
 三島由紀夫もみずからの戦後を「余生」と表現している。

 そこで問題とされているのは、自己犠牲をなしえなかった個人の脆さだ。そこにかれらはみずからのエゴイズムを見る。

 エゴイズムは、理想にたいする否定的要素としてとりだされる。同時に、そこに生じた苦悩から一つの倫理的解答を得ようとしている――といえば、少々いいすぎになるかもしれないが、とにかくそこに作品の真実は架けられている。いやここでは遠慮なんかいらない、はっきりいおう、かれらはエゴイズムを発見しえた自己の誠実を存在証明としているのだ。
 それを福田恆存は全否定しているわけである。「なにかがはきちがえられてゐる」と。

 あの種のエゴイズムは、これを他人のものとして責めるよりも、自分のものとしておのれをさいなむほうが、じつはかへつて概念的なのだ。したがつて、より安易だといへる。

「否定の精神」

 福田恆存は、みずからのエゴイズムを悪とみなす思想を否定する。なぜならそれは「概念的」であり「安易」だからだ。つまり、血の通わない思考操作であって、そこに真の苦悩はないと考えている。

 もちろん、すでに承知のこととおもつてゐた出発点にまで主題をもどしてきたことに、戦後文学の新鮮さがあるのだが、それはまた世間しらずの少年が世のなかの悪を発見したときの驚きに似た稚さでもある。

「否定の精神」

 戦後派のエゴイズム否定は幼稚な論理であり、大人の議論は――真の問題はその先に展開されるべきものだとばっさり切り捨てられている。福田恆存がこういう高飛車なものいいをするときほど、それだけ誠実に自己の真実が語られている。

 私はロレンスの項において、福田恆存の次の言葉を引用しておいた。

 ぼくは愛の思想におびえおののきながら育つた。そして自分が愛することのできぬといふ事実を知つたとき、愛もまた生命力の昂揚であり、才能であることをさとつた。いひかへれば自分のエゴイズムをみとめてはじめて、ひとを愛することを知つたのだ。

「白く塗りたる墓」

 ここにはかれの歩んできた厳しい思索の道のりが暗示されている。

 個人の確立をとなえながら、そのうちからエゴイズムだけを除外してかかろうというのは、少々むしのよすぎる考え方ではないか。生きる意欲と愛が分離できぬように、そこからエゴイズムを除き去れば、髪の毛をうばわれたサムソンのように、生命力そのものがへなへなに力を失う。

 ひとくちに「エゴイズム」とはいいながら、そのとらえ方が問題となる。

 人間の根本的現実としてのパースペクティヴにはモナドのように窓が無い。したがって、人は他者と合一することも、完全な相互理解に到達することもない。それが人間の存在論的宿命である。
 であるならば、愛とは、すくなくとも行動のレベルにおいては、互いの孤独を確認し、それを交換し合い、認め合ういとなみでしかない。それでもなお、人が人を愛そうとするところに、愛というものの真の意味がある。

 戦後派の人たちの考えるエゴイズムとは、理想にたいする否定的要素だった。その場合、かれらの前提となっている愛の理想は、他者と過不足なく一致することなのだ。
「なにかがはきちがへられてゐる」の「なにか」とは、こうした空想的な愛の思想をさしている。のみならずそれは、愛とエゴイズムを分離した二つの因子としてとらえる思考の甘さ、「幼稚さ」と同時存在なのである。

 より以上の不正とは――自己完成の徳を説いてエゴイズムの悪を責めること。それが他人のではなくて自分のものであれば、不正はなほのこと増大する。一見して他人に誠実と見られるからだ。
 ひとに花たばを贈らうとするならば、泥をいつしよに贈つてはならない――と、ある詩人がいつた。誠実さが売物になるとおもつてゐるひとたち、誠実を求める苦悩がそれだけで作品の誠実を保証しうると考へてゐるひとたち――きみたちは泥を売らうとしてゐるのだ。

「白く塗りたる墓」

 近代の指導理念である個人の解放は、それまで集団や制度が吸収してきた社会的・政治的摩擦を、個人の名において処理しなくてはならない状況をつくりだした。みずからの安心安全、自由平等の追求において、それを集団的自我の見地から見れば、他者とは障害物であり、自我を抑圧するものとしてあらわれる危険な存在者である。
 こういう他者についての観念を内面化したものが、あるいは抽象化したものが戦後派の――いや、ふだんわれわれがおもいえがいている「エゴイズム」というものの実相である。その正体は、みずからの自我の放縦についての警戒ではなく、他者の干渉と暴力への怖れなのだ。そうであるならばそこでとらえられていたのは、理想とエゴイズムの相克ではなく、エゴイズムとエゴイズムの衝突にすぎない。

 それをべつの角度からながめてみよう。たとえば冒頭の小説において、意地の悪い見方をすれば、敗走中の限界状況だからこそ自己のエゴイズムを発見しえたが、勝ち組にいたとすれば、エゴイズムに気づかぬどころか、じつはその「エゴイズム」自体が存在しないのではないか、という疑問がのこるのである。
 勝ち組にいようが、負け組にいようが、エゴイズムは厳としてある。そうでなくては、文学の課題とはならない。ところが戦後派の文学においては、つねに負け組のパースペクティヴにのみ、「エゴイズム」は出現するのである。ふつうに考えたら、他者を蹴落として成功した側に、エゴイズムの観念は宿るのではあるまいか。

 ことあるごとに福田恆存が指摘しているように、生来、日本人の自我は脆くて弱い。「負け組のエゴイズム」は、西洋文学から流入した自由やエゴイズムといった観念との遭遇において、その意志的な内実を受けとめきれずに、非行動的なものへと転化することで受容がおこなわれたということが背景にある。しかもそれが非行動的なものであるがゆえに、積極的な価値へとむかう道すじはあらかじめ塞がれている。(福田恆存を体系化する第七回参照)

 戦後派の代表作・大岡昇平「俘虜記」においても、知らずに目の前を通過する若い敵兵を主人公は「ヒューマニズムから」撃つまいと決意し、これでかれの母親に感謝されてもいいわけだ、とひとりごちる。しかし相手は、そののち自分だけでなく味方の日本兵をも容赦なく撃ち殺す存在者なのである。その場合の「ヒューマニズム」の理想とは何なのか――

 現実的にみて、弾がかならず当たるとはいえないし、たとえ当たったとしても、相手は死ぬとはかぎらない。しかも撃てば自分の所在が知られて、集中攻撃されるかもしれぬ。
 ここでの描写がいかに現実離れした観念的なものであるか、もはやお解りいただけるであろう。そして、そういう「ヒューマニズム」の対極に、相手が死んで自分が生きのこる「エゴイズム」が対置されている。いわば、それは「負の倫理」である。

 思考と行動は目的を前提とする。だがかれは、あえて撃たないという自由を行使した。そしてその自由に自己の権威と価値を見いだしていた。だがこの場合、撃たないという消極的自由を目的化することで、その「ヒューマニズム」は行動にはむすびつかない空虚なものとなる。当然、それに対置された「エゴイズム」もレアリティを欠いたものとならざるをえない。目的を思考するのではなく、思考が思考する。

 ことわっておくが、私は大岡昇平の愛読者だ。かれが現実を見つめているときの緊密な描写はすばらしい。がしかし、作者が「理想」を語りだした瞬間、「野火」や「酸素」においてもいえることだが、文体は重心を失って空中を漂いはじめる。
 理想は思考されるものである。だが、行動を前提としない「理想」は「空想」にすぎぬ。撃たない「ヒューマニズム」は、撃たれたくない「エゴイズム」と表裏一体なのだ。
「きみたちは泥を売らうとしてゐるのだ」というのは、まさにそのことだ。

 私はなにも大岡昇平や戦後派の人たちを貶めているのではない、それどころか、逃げ場のない屈辱を感じている。私たちが――私がsocial imaginaryとして抱懐している「ヒューマニズム」や「エゴイズム」は、まさしくそうした非行動的な観念であるからだ。なんといってもそれは偽善であり、歪んだセンチメンタリズムに相違ない。書きながら、福田恆存の鷹のように鋭い眼光がまっすぐに私を見据えているのを感じる。

――ぼくを「勝手に体系化する」だって? そういう君の生活は実際どうなのか、それだけのことをしているのか。

 福田恆存の容赦のない声が私の耳の奥でひびく。私はかれについて語ることで、私のけちな性根をかれに見透かされるのである。

 こうしたネガティブなエゴイズムやヒューマニズムのとらえ方は、現代において、人間的自由の問題へと道を通じている。だが、こういう非行動的概念を基礎とした社会理論はすべて実効性を欠いたものとならざるをえない。

 だからこそ福田恆存は、あえていう。

――エゴイズムを肯定せよ。

 そこには複雑な意味がこめられている。が、端的にいえることは、つまらぬ内省にふけるまえに、まず全力で生きてみよということだ。
 思考と行動から、要領よく「エゴイズム」だけを切除してかかることはできない。だとしても、あれこれ理由をつけてなにもしないよりは、エゴイズムの悪を犯したほうがいい。いいかえれば、悪に堪えよと、福田恆存はいっているのである。それは人間の逆説的な真実を開示するメッセージだ。

 ひとびとよ、おのが苦悩を恥ぢよ。全力をあげて涼しい眼もとにこれを隠せ。

「白く塗りたる墓」

 行動せぬ思考はけっして理想にいたりつくことはない。生きるということは行動することだ。価値は思考されるものではなく、生きられるもの。エゴイズムをともなわぬ行動は不可能である。とすれば、これからの社会像はそうした人間の根本的事実の上に打ちたてられねばならぬ。

――ここがロードスだ、ここで跳べ。

福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。